智囊 / 辯才・楊善
善曰:「若將財物來,後人說官人愛錢了,若空手迎去,見得官人有仁義,能順天道,自古無此好男子。我監修史書,備細寫上,著萬代人稱贊。」也先笑曰:「者!者!都御史寫的好者!」次日,見上皇。又次日,也先遂設宴,與上皇送行。〔述評〕楊善之遣,止是探問消息,初未有奉迎之計。被善一席好語,說得也先又明白,又歡喜,即時遣人隨善護送上皇來歸,奇哉!晉之懷、愍,度其必不得而不敢求者也;宋之徽、欽,求之而不得者也。庶幾趙之廝養卒乎,然機有可乘者三:耳、餘輩皆欲歸王,一也;繼使者十輩之後,二也;分爭之際,易以利害動,三也。虜狃於晉、宋之故事,方以奇貨可居。
新字:善曰:「若将財物来,後人説官人愛銭了,若空手迎去,見得官人有仁義,能順天道,自古無此好男子。我監修史書,備細写上,著万代人称賛。」也先笑曰:「者!者!都御史写的好者!」次日,見上皇。又次日,也先遂設宴,与上皇送行。〔述評〕楊善之遣,止是探問消息,初未有奉迎之計。被善一席好語,説得也先又明白,又歓喜,即時遣人随善護送上皇来帰,奇哉!晋之懐、愍,度其必不得而不敢求者也;宋之徽、欽,求之而不得者也。庶幾趙之廝養卒乎,然機有可乗者三:耳、余輩皆欲帰王,一也;継使者十輩之後,二也;分争之際,易以利害動,三也。虜狃於晋、宋之故事,方以奇貨可居。
書き下し
善曰く、「若し財物を将て来たらば、後人は官人の銭を愛すと説かん。若し空手にして迎え去らば、官人に仁義有り、能く天道に順い、自古此の好男子無きを見得ん。我、史書を監修し、備細に写し上げ、万代の人をして称賛せしめん」。也先、笑いて曰く、「者、者。都御史の写す、好し者」。次日、上皇に見ゆ。又次日、也先遂に宴を設け、上皇と送行す。〔述評〕楊善の遣わさるるは、止だ是れ消息を探問するのみにして、初めより奉迎の計有らず。善の一席の好語を被り、説きて也先を又明白ならしめ、又歓喜せしめ、即時に人を遣わして善に随いて上皇を護送して来帰せしむ。奇なるかな。晋の懐・愍は、其の必ず得ずと度りて敢えて求めざる者なり。宋の徽・欽は、之を求めて得ざる者なり。庶幾くは趙の廝養卒か。然れども機の乗ず可き者三つ有り。耳・余の輩、皆王を帰さんと欲す、一なり。使者十輩の後を継ぐ、二なり。分争の際、易く利害を以て動かす、三なり。虜は晋・宋の故事に狃れ、方に奇貨居く可しと以えり。
現代語訳
楊善は言いました。「もし財物を持って来たなら、後の人は官人が金銭を愛したと言うでしょう。もし手ぶらで迎えに行けば、官人に仁義があり、天道に従うことができ、昔からこのような立派な男はいなかったと見えるでしょう。私は史書の編纂を監督して、詳しく書き記し、万代の人に称賛させます。」也先は笑って「者、者。都御史が書くなら結構だ」と言いました。翌日、上皇に会いました。そのまた翌日、也先は宴を設け、上皇を送り出しました。〔述評〕楊善が派遣されたのは、ただ消息を探るためであり、もともと上皇を迎える計画はなかった。ところが楊善の一席の見事な言葉によって、也先をますます明白に理解させ、また喜ばせ、すぐさま人を遣わして楊善に付き添わせ上皇を護送して帰らせた。不思議なことだ。晋の懐帝・愍帝は、必ず帰れないと見通して、あえて求めなかった者である。宋の徽宗・欽宗は、これを求めて得られなかった者である。近いのは趙の廝養卒であろうか。しかしその場合も、機会に乗ずべき条件が三つあった。張耳・陳余らがみな王を帰したがっていたのが一つ、使者十組の後を継いでいたのが二つ、仲間の争いの際で利害で動かしやすかったのが三つである。虜は晋・宋の先例に慣れ、まさに珍しい財宝として手元に置こうと考えていた。
解説
この章句が説くこと
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史記 田敬仲完世家田忌曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。蚤く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘れずして之を救はば、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受け、顧って反りて命を韓に聴くなり。且つ魏に国を破るの志有り。韓亡びんとするを見ば、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親しみを結びて晩く魏の獘を承けば、則ち利を重ねて尊名を得べきなり」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓因りて斉を恃み、五たび戦ひて勝たず、東のかた国を斉に委ぬ。斉因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、大いに之を馬陵に敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜にす。其の後三晋の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟ひて去る。七年、魏王と平阿の南に会す。明年、復た甄に会す。魏の恵王卒す。明年、魏の襄王と徐州に会し、諸侯相王とす。十年、楚我が徐州を囲む。十一年、魏と趙を伐つ。趙河水を決して斉・魏に灌ぐ。兵罷む。十八年、秦の恵王王と称す。宣王文学游説の士を喜ぶ。騶衍・淳于髡・田駢・接子・慎到・環淵の徒の如きより七十六人、皆列第を賜ひ、上大夫と為し、治めずして議論せしむ。是を以て斉の稷下の学士復た盛んにして、且に数百千人ならんとす。十九年、宣王卒し、子湣王地立つ。湣王元年、秦張儀をして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、婦を秦に迎ふ。七年、宋と魏を攻め、之を観沢に敗る。十二年、魏を攻む。楚雍氏を囲む。秦屈丐を敗る。蘇代、田軫に謂ひて曰く、「臣願はくは公に謁する有らん。其の事を為すこと甚だ完し。楚をして公を利せしめ、成れば福と為り、成らずとも亦福と為さん。
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『呻吟語』内篇・問學・日落ちて城門に趕る日落ちて城門に趕る。一腳遲ければ便ち關ざされたり。何處にか止宿せん。故に學は時に及ぶを貴ぶ。懸崖に孤樹を抱く。一手鬆かなれば便ち脫れたり。何處にか身を落とさん。故に學は力を著くるを貴ぶ。故に老大に傷悲するも、時を追はんと要せば除は是れ再生なり。既に將に得んとするに失ふも、仍前ならんと要せば除は是れ頭より從ふなり。
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