智囊 / 辯才・廝養卒
趙王武臣遣韓廣至燕,燕人因立廣為燕王。趙王與張耳、陳餘北略地至燕界。趙王間出,為燕軍所得,燕將囚之,欲與分趙地半,乃歸王。使者十輩,往輒見殺,張耳,陳餘患之。有廝養卒,謝其舍中曰:「吾為公說燕,與王載歸。」舍中皆笑,養卒走燕壁,問燕將曰:「知臣何欲?」燕將曰:「若欲得趙王耳。」曰:「君知張耳、陳餘何如人?」燕將曰:「賢人也。」曰:「知其志何欲?」曰:「欲得王。」養卒笑曰:「君未知此兩人所欲也。夫武臣,張耳、陳餘,杖馬棰下趙數十城,此亦各欲南面而王,豈欲為卿相終已耶?夫臣與主,豈可同日而道哉!顧其勢初定,未敢參分而王;且以少長,先王武臣,以持趙心。今趙地已服,此兩人亦欲分趙而王,時未可耳。今乃囚趙王,此兩人名為求趙王,實欲燕殺之,此兩人分趙自立,夫以一趙尚易燕,況以兩賢王左提右挈,而責殺王之罪,滅燕必矣。」燕將以為然,乃歸趙王。養卒為御而歸。
新字:趙王武臣遣韓広至燕,燕人因立広為燕王。趙王与張耳、陳余北略地至燕界。趙王間出,為燕軍所得,燕将囚之,欲与分趙地半,乃帰王。使者十輩,往輒見殺,張耳,陳余患之。有廝養卒,謝其舎中曰:「吾為公説燕,与王載帰。」舎中皆笑,養卒走燕壁,問燕将曰:「知臣何欲?」燕将曰:「若欲得趙王耳。」曰:「君知張耳、陳余何如人?」燕将曰:「賢人也。」曰:「知其志何欲?」曰:「欲得王。」養卒笑曰:「君未知此両人所欲也。夫武臣,張耳、陳余,杖馬棰下趙数十城,此亦各欲南面而王,豈欲為卿相終已耶?夫臣与主,豈可同日而道哉!顧其勢初定,未敢参分而王;且以少長,先王武臣,以持趙心。今趙地已服,此両人亦欲分趙而王,時未可耳。今乃囚趙王,此両人名為求趙王,実欲燕殺之,此両人分趙自立,夫以一趙尚易燕,況以両賢王左提右挈,而責殺王之罪,滅燕必矣。」燕将以為然,乃帰趙王。養卒為御而帰。
書き下し
趙王武臣、韓広を遣わして燕に至らしむ。燕人因りて広を立てて燕王と為す。趙王、張耳・陳余と北のかた地を略して燕の界に至る。趙王、間に出で、燕軍の得る所と為る。燕将之を囚え、与に趙の地を半ばに分かたんと欲し、乃ち王を帰さんとす。使者十輩、往けば輒ち殺さる。張耳・陳余、之を患う。廝養卒有り、其の舎中に謝して曰く、「吾、公の為に燕に説き、王と載せて帰らん」。舎中皆笑う。養卒、燕の壁に走り、燕将に問いて曰く、「臣の何をか欲するを知るか」。燕将曰く、「若は趙王を得んと欲するのみ」。曰く、「君、張耳・陳余の何如なる人なるかを知るか」。燕将曰く、「賢人なり」。曰く、「其の志の何をか欲するを知るか」。曰く、「王を得んと欲す」。養卒笑いて曰く、「君未だ此の両人の欲する所を知らざるなり。夫れ武臣・張耳・陳余、馬を杖きて趙の数十城を棰下にし、此れも亦た各おの南面して王たらんと欲す。豈に卿相と為りて終わらんと欲せんや。夫れ臣と主と、豈に同日にして道う可けんや。顧うに其の勢い初めて定まり、未だ敢えて参分して王たらず。且つ少長を以て、先ず武臣を王として、以て趙の心を持す。今趙の地已に服す。此の両人も亦た趙を分かちて王たらんと欲す。時未だ可ならざるのみ。今乃ち趙王を囚う。此の両人、名は趙王を求むと為すも、実は燕の殺すを欲す。此の両人趙を分かちて自立せば、夫れ一趙を以てすら尚お燕に易し。況んや両賢王を以て左に提げ右に挈え、殺王の罪を責むれば、燕を滅ぼすこと必せり」。燕将以て然りと為し、乃ち趙王を帰す。養卒、御と為りて帰る。
現代語訳
趙王武臣は韓広を燕に遣わしましたが、燕の人々はそのまま韓広を立てて燕王にしました。趙王は張耳・陳余とともに北へ土地を攻略して燕の境に至りました。趙王はひそかに出かけたところ、燕軍に捕らえられました。燕の将は趙王を囚え、趙の領地を半分に分けるなら王を返そうとしました。使者は十組ほど行きましたが、行くたびに殺されました。張耳・陳余はこれを憂えました。雑用の兵卒がいて、同じ宿舎の者に言いました。「私が皆さんのために燕に説き、王を車に乗せて帰ってきましょう。」宿舎の者はみな笑いました。兵卒は燕の陣営に走り、燕の将に問いました。「私が何を望んでいるかご存じですか。」燕の将は「お前は趙王を得たいだけだろう」と言いました。兵卒は言いました。「あなたは張耳・陳余がどんな人かご存じですか。」燕の将は「賢人だ」と言いました。「その志がなにを望んでいるかご存じですか。」「王を得たいのだ」と答えました。兵卒は笑って言いました。「あなたはまだこの二人の望むところをご存じありません。武臣、張耳、陳余は、馬に乗って趙の数十城を鞭の下に置き、それぞれ南面して王になりたいと思っています。どうして卿相で終わろうとするでしょうか。臣と主とは同日に語れません。ただ、勢いが定まったばかりで、まだ三分割して王を立てることができず、年齢の順で先に武臣を王にして、趙の人心をまとめているのです。いま趙の地はすでに服しました。この二人も趙を分けて王になりたいのですが、時期がまだなだけです。いま趙王を囚えたことは、この二人は名目上趙王を求めていても、実は燕が殺すのを望んでいます。二人が趙を分けて自立すれば、一つの趙でさえ燕には容易に対抗できるのに、まして二人の賢い王を左右に従え、王を殺した罪を責めれば、燕を滅ぼすことは確実です。」燕の将はもっともだと思い、趙王を帰しました。兵卒は御者となって帰りました。
解説
この章句が説くこと
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人物志・八觀天下の至精に非ずんば、其れ孰か能く其の実を得んや。
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人物志・八觀八に曰く、其の聡明を観て、以て達する所を知る。
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史記 黥布列伝山東は漢の有に非ざるなり。中計に出でば、勝敗の数未だ知るべからざるなり。下計に出でば、陛下枕を安んじて臥せん」と。上曰く、「何をか上計と謂ふ」と。令尹対へて曰く、「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、斉を并せ魯を取り、檄を燕・趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり」と。「何をか中計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖庾の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数未だ知るべからざるなり」と。「何をか下計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた下蔡を取り、重を越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下枕を安んじて臥し、漢事無からん」と。上曰く、「是の計将に安くにか出でんとす」と。令尹対へて曰く、「下計に出でん」と。上曰く、「何の謂ぞ上中計を廃して下計に出づるとは」と。令尹曰く、「布は故の麗山の徒なり。自ら万乗の主に致る。此れ皆身の為にして、後に百姓万世の為に慮ることを顧みざる者なり。故に下計に出づと曰ふ」と。上曰く、「善し」と。薛公に千戸を封ず。乃ち皇子長を立てて淮南王と為す。上遂に兵を発し、自ら将として東のかた布を撃つ。布の初めて反するや、其の将に謂ひて曰く、「上老いたり、兵を厭ふ。必ず来たる能はず。諸将をして使はしめん。諸将は独り淮陰・彭越を患ふるのみ。今皆已に死せり。余は畏るるに足らざるなり」と。故に遂に反す。果して薛公の之を籌るが如く、
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