史記 / 呉太伯世家
歌《頌》,曰:「至矣哉,直而不倨,曲而不詘,近而不偪,遠而不攜,而遷不淫,復而不厭,哀而不愁,樂而不荒,用而不匱,廣而不宣,施而不費,取而不貪,處而不厎,行而不流。五聲和,八風平,節有度,守有序,盛德之所同也。」見舞《象箾》、《南籥》者,曰:「美哉,猶有感。」見舞《大武》,曰:「美哉,周之盛也其若此乎?」見舞《韶護》者,曰:「聖人之弘也,猶有慚德,聖人之難也!」見舞《大夏》,曰:「美哉,勤而不德!非禹其誰能及之?」見舞《招箾》,曰:「德至矣哉,大矣,如天之無不燾也,如地之無不載也,雖甚盛德,無以加矣。觀止矣,若有他樂,吾不敢觀。」去魯,遂使齊。説晏平仲曰:「子速納邑與政。無邑無政,乃免於難。齊國之政將有所歸;未得所歸,難未息也。」故晏子因陳桓子以納政與邑,是以免於欒髙之難。去齊,使於鄭。見子産,如舊交。謂子産曰:「鄭之執政侈,難將至矣,政必及子。子爲政,愼以禮。不然,鄭國將敗。」去鄭,適衞。説蘧瑗、史狗、史鰍、公子荊、公叔發、公子朝曰:「衞多君子,未有患也。」自衞如晉,將舍於宿,聞鍾聲,曰:「異哉!吾聞之,辯而不德,必加於戮。夫子獲罪於君以在此,懼猶不足,而又可以畔乎?夫子之在此,猶燕之巣於幕也。君在殯而可以樂乎?」遂去之。文子聞之,終身不聽琴瑟。適晉,説趙文子、韓宣子、魏獻子曰:「晉國其萃於三家乎!」將去,謂叔向曰:「吾子勉之!君侈而多良,大夫皆富,政將在三家。吾子直,必思自免於難。」
新字:歌《頌》,曰:「至矣哉,直而不倨,曲而不詘,近而不偪,遠而不攜,而遷不淫,復而不厭,哀而不愁,楽而不荒,用而不匱,広而不宣,施而不費,取而不貪,処而不厎,行而不流。五声和,八風平,節有度,守有序,盛徳之所同也。」見舞《象箾》、《南籥》者,曰:「美哉,猶有感。」見舞《大武》,曰:「美哉,周之盛也其若此乎?」見舞《韶護》者,曰:「聖人之弘也,猶有慚徳,聖人之難也!」見舞《大夏》,曰:「美哉,勤而不徳!非禹其誰能及之?」見舞《招箾》,曰:「徳至矣哉,大矣,如天之無不燾也,如地之無不載也,雖甚盛徳,無以加矣。観止矣,若有他楽,吾不敢観。」去魯,遂使斉。説晏平仲曰:「子速納邑与政。無邑無政,乃免於難。斉国之政将有所帰;未得所帰,難未息也。」故晏子因陳桓子以納政与邑,是以免於欒高之難。去斉,使於鄭。見子産,如旧交。謂子産曰:「鄭之執政侈,難将至矣,政必及子。子為政,慎以礼。不然,鄭国将敗。」去鄭,適衛。説蘧瑗、史狗、史鰍、公子荊、公叔発、公子朝曰:「衛多君子,未有患也。」自衛如晋,将舎於宿,聞鍾声,曰:「異哉!吾聞之,弁而不徳,必加於戮。夫子獲罪於君以在此,懼猶不足,而又可以畔乎?夫子之在此,猶燕之巣於幕也。君在殯而可以楽乎?」遂去之。文子聞之,終身不聴琴瑟。適晋,説趙文子、韓宣子、魏献子曰:「晋国其萃於三家乎!」将去,謂叔向曰:「吾子勉之!君侈而多良,大夫皆富,政将在三家。吾子直,必思自免於難。」
書き下し
頌を歌ふ。曰く、「至れるかな。直にして倨らず、曲にして詘せず、近くして偪らず、遠くして攜れず、遷りて淫せず、復りて厭かず、哀しみて愁へず、楽しみて荒まず、用ひて匱しからず、広くして宣べず、施して費さず、取りて貪らず、処りて厎まらず、行きて流れず。五声和し、八風平らかに、節に度有り、守に序有り、盛徳の同じき所なり」と。象箾・南籥を舞ふ者を見て、曰く、「美なるかな、猶ほ感有り」と。大武を舞ふを見て、曰く、「美なるかな、周の盛んなるや其れ此の若きか」と。韶護を舞ふ者を見て、曰く、「聖人の弘きも、猶ほ慚徳有り、聖人の難きなり」と。大夏を舞ふを見て、曰く、「美なるかな、勤めて徳とせず。禹に非ずんば其れ誰か能く之に及ばん」と。招箾を舞ふを見て、曰く、「徳至れるかな、大なるかな。天の燾はざる無きが如く、地の載せざる無きが如し。甚だ盛徳なりと雖も、以て加ふる無し。観止まれり。若し他の楽有るも、吾敢て観ず」と。魯を去り、遂に斉に使す。晏平仲に説きて曰く、「子速やかに邑と政とを納めよ。邑無く政無くんば、乃ち難を免れん。斉国の政は将に帰する所有らんとす。未だ帰する所を得ざれば、難未だ息まざるなり」と。故に晏子は陳桓子に因りて以て政と邑とを納め、是を以て欒・高の難を免る。斉を去り、鄭に使す。子産に見ゆること、旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政侈る。難将に至らんとし、政は必ず子に及ばん。子政を為さば、慎むに礼を以てせよ。然らずんば、鄭国将に敗れんとす」と。鄭を去り、衛に適く。蘧瑗・史狗・史鰍・公子荊・公叔発・公子朝に説びて曰く、「衛には君子多し、未だ患有らざるなり」と。衛より晋に如き、将に宿に舎らんとして、鍾の声を聞き、曰く、「異なるかな。吾之を聞く、辯にして徳あらざれば、必ず戮に加へらると。夫子、罪を君に獲て以て此に在り。懼るるも猶ほ足らず、而るを又以て畔す可けんや。夫子の此に在るは、猶ほ燕の幕に巣くふがごとし。君、殯に在りて以て楽しむ可けんや」と。遂に之を去る。文子之を聞き、終身琴瑟を聴かず。晋に適き、趙文子・韓宣子・魏献子に説びて曰く、「晋国は其れ三家に萃まらんか」と。将に去らんとして、叔向に謂ひて曰く、「吾子之を勉めよ。君侈りて良多く、大夫皆富み、政は将に三家に在らんとす。吾子は直なり、必ず自ら難を免れんことを思へ」と。
現代語訳
「頌」を歌った。季札は言った。「これ以上のものはない。まっすぐでいて傲らず、曲がっていても屈せず、近くても迫らず、遠くても離れず、移り変わっても乱れず、繰り返しても飽きさせず、悲しんでも憂いに沈まず、楽しんでも溺れず、用いても尽きず、広くても誇示せず、施しても浪費せず、取っても貪らず、とどまっても停滞せず、進んでも流されない。五声(宮・商・角・徴・羽)は調和し、八風(八方の楽器の音)は整い、節には程度があり、守りには秩序がある。盛んな徳を持つ者がみな同じくするところである」。「象箾(しょうさく)」と「南籥(なんやく)」の舞を見て言った。「美しい。しかしまだ心残りがある(文王の舞で、天下を得る前の思いが残っている)」。「大武」の舞を見て言った。「美しい。周が盛んであったのは、このようであったのか」。「韶護(しょうご)」の舞を見て言った。「聖人の徳の広さをもってしても、なお恥じる思いがある(湯王が君主を討った)。聖人でも難しいことがあるのだ」。「大夏」の舞を見て言った。「美しい。勤労しながら徳を誇らない。禹でなければ誰がこれに及べようか」。「招箾(しょうさく)」の舞を見て言った。「徳の極みである。大きい。天が覆わないものがないように、地が載せないものがないようだ。どれほど盛んな徳であっても、これに加えるものはない。見るのはここまでにしよう。ほかに音楽があっても、私はあえて見ない」。魯を去ると、次に斉に使者として赴いた。季札は晏平仲(晏嬰)に説いて言った。「あなたは速やかに領地と政権を返上しなさい。領地も政権もなければ、災いを免れることができる。斉の国の政権はいずれ落ち着くところに落ち着くが、まだ落ち着く先が決まらないうちは、災難はやまないだろう」。そこで晏子は陳桓子を通じて政権と領地を返上し、そのため欒氏・高氏の乱に巻き込まれずにすんだ。斉を去ると、鄭に使者として赴いた。子産(しさん)に会うと、昔からの友人のように親しんだ。季札は子産に言った。「鄭の執政者は驕っている。災難がやがてやって来て、政権は必ずあなたのところに回ってくるだろう。あなたが政治を執るなら、礼によって慎重に行いなさい。そうでなければ、鄭の国は滅びるだろう」。鄭を去り、衛に行った。季札は蘧瑗(きょえん)・史狗・史鰍・公子荊・公叔発・公子朝と会って喜び、言った。「衛には君子が多い。まだ憂いはないだろう」。衛から晋に行く途中、宿(しゅく)の地に泊まろうとしたところ、鐘の音を聞いて言った。「おかしなことだ。私はこう聞いている。弁は立っても徳がなければ、必ず刑罰を受けると。あの方(孫文子)は主君に罪を得てここにいるのだ。恐れつつしんでもまだ足りないのに、そのうえ楽しんでよいものだろうか。あの方がここにいるのは、燕が幕の上に巣を作っているようなもの(いつ落ちるか分からない危うさ)だ。主君がまだ殯(かりもがり)にあるのに、音楽を楽しんでよいのだろうか」。そしてそこを立ち去った。孫文子はこれを聞いて、一生涯琴や瑟を聴かなかった。晋に行くと、趙文子・韓宣子・魏献子と会って喜び、言った。「晋の国は、いずれこの三家に集まるだろう」。去ろうとするとき、叔向に言った。「あなたは努めなさい。君主は驕っていながら良臣が多く、大夫たちはみな富んでいるので、政権はいずれ三家に移るだろう。あなたはまっすぐな人だから、必ず自分が災難から免れることを考えなさい」。
解説
関連する章句
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史記 呉太伯世家秋、呉、楚を伐つ。楚、我が師を敗る。四年、晋の平公初めて立つ。十三年、王諸樊卒す。命有りて弟余祭に授け、次を以て伝へ、必ず国を季札に致して止め、以て先王寿夢の意に称ひ、且つ季札の義を嘉せんと欲す。兄弟皆国を致さんと欲し、漸を以て至らしむ。季札は延陵に封ぜらる、故に号して延陵季子と曰ふ。王余祭の三年、斉の相慶封罪有り、斉より来りて呉に犇る。呉、慶封に朱方の県を予へて以て奉邑と為し、女を以て之に妻はす。斉に在りしより富めり。四年、呉、季札をして魯に聘せしむ。周の楽を観んことを請ふ。為に周南・召南を歌ふ。曰く、「美なるかな。始めて之を基せり、猶ほ未だしきなり。然れども勤めて怨みず」と。邶・鄘・衛を歌ふ。曰く、「美なるかな、淵なるかな、憂ふれども困しまざる者なり。吾聞く、衛の康叔・武公の徳是の如しと。是れ其れ衛風か」と。王を歌ふ。曰く、「美なるかな。思ひて懼れず、其れ周の東せしか」と。鄭を歌ふ。曰く、「其の細なること已だ甚だし、民堪へざるなり。是れ其れ先づ亡びんか」と。斉を歌ふ。曰く、「美なるかな、泱泱乎として大風なるかな。東海に表たる者は、其れ太公か。国未だ量る可からざるなり」と。豳を歌ふ。曰く、「美なるかな、蕩蕩乎として、楽しみて淫せず、其れ周公の東せしか」と。秦を歌ふ。曰く、「此れ之を夏声と謂ふ。夫れ能く夏なれば則ち大、大の至りなり。其れ周の旧か」と。魏を歌ふ。曰く、「美なるかな、渢渢乎として、大にして婉、倹にして易、行ふに徳を以て輔くれば、此れ則ち盟主なり」と。唐を歌ふ。曰く、「思ひ深きかな。其れ陶唐氏の遺風有るか。然らずんば、何ぞ憂ひの遠きや。令徳の後に非ずんば、誰か能く是の若くならん」と。陳を歌ふ。曰く、「国に主無し、其れ能く久しからんや」と。鄶より以下は、譏る無し。小雅を歌ふ。曰く、「美なるかな。思ひて弐かず、怨みて言はず、其れ周の徳の衰へたるか。猶ほ先王の遺民有るなり」と。大雅を歌ふ。曰く、「広きかな、熙熙乎として、曲にして直体有り、其れ文王の徳か」と。
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史記 孔子世家桓子卒に斉の女楽を受け、三日政を聴かず。郊して、又膰俎を大夫に致さず。孔子遂に行き、屯に宿す。而して師己送りて曰く、「夫子は則ち罪に非ず」と。孔子曰く、「吾歌はんこと可ならんか」と。歌ひて曰く、「彼の婦の口、以て出走すべし。彼の婦の謁、以て死敗すべし。蓋し優なるかな游なるかな、維れ以て歳を卒へん」と。師己反る、桓子曰く、「孔子亦た何をか言へる」と。師己実を以て告ぐ。桓子喟然として嘆じて曰く、「夫子我を罪するに羣婢の故を以てするなるかな」と。孔子遂に衛に適き、子路の妻の兄顔濁鄒の家に主たり。衛の霊公孔子に問ふ、「魯に居りて禄を得ること幾何ぞ」と。対へて曰く、「粟六万を奉ず」と。衛人も亦た粟六万を致す。居ること之を頃くして、或ひと孔子を衛の霊公に譖す。霊公、公孫余仮をして一たび出で一たび入らしむ。孔子罪を獲んことを恐れ、居ること十月にして、衛を去る。将に陳に適かんとし、匡を過ぐ、顔刻僕為り、其の策を以て之を指して曰く、「昔吾此に入りしは、彼の缺けたるに由るなり」と。匡人之を聞き、以て魯の陽虎と為す。陽虎嘗て匡人に暴す、匡人是に於て遂に孔子を止む。孔子の状陽虎に類す、拘へらるること五日。顔淵後る、子曰く、「吾汝を以て死せりと為す」と。顔淵曰く、「子在す、回何ぞ敢へて死せん」と。匡人孔子を拘ふること益々急なり、弟子懼る。孔子曰く、「文王既に没す、文茲に在らずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死の者斯の文に与るを得ざるなり。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予を如何せん」と。孔子、従者をして甯武子の臣と為りて衛に於てせしめ、然る後に去るを得たり。去りて即ち蒲を過ぐ。月余にして、衛に反り、蘧伯玉の家に主たり。霊公の夫人に南子なる者有り、人をして孔子に謂はしめて曰く、「四方の君子の辱くも寡君と兄弟為らんと欲する者は、必ず寡小君に見ゆ。寡小君見えんことを願ふ」と。孔子辞謝するも、已むを得ずして之に見ゆ。夫人絺帷の中に在り。孔子門に入り、北面して稽首す。
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史記 孔子世家斉の太師と楽を語り、韶の音を聞きて之を学ぶ、三月肉の味を知らず、斉人之を称す。景公政を孔子に問ふ、孔子曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり」と。景公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾豈に得て諸を食はんや」と。他日又復た政を孔子に問ふ、孔子曰く、「政は財を節するに在り」と。景公説び、将に尼谿の田を以て孔子を封ぜんと欲す。晏嬰進みて曰く、「夫れ儒者は滑稽にして軌法とすべからず。倨傲にして自ら順ひ、以て下と為すべからず。喪を崇び哀を遂げ、産を破りて葬を厚くす、以て俗と為すべからず。游説して乞貸す、以て国を為むべからず。大賢の息みしより、周室既に衰へ、礼楽缺くること間有り。今孔子は容飾を盛んにし、登降の礼、趨詳の節を繁くす、累世も其の学を殫くす能はず、当年も其の礼を究むる能はず。君之を用ひて以て斉の俗を移さんと欲するは、細民に先んずる所以に非ざるなり」と。後、景公敬して孔子に見ゆるも、其の礼を問はず。異日、景公孔子を止めて曰く、「子を奉ずるに季氏を以てするは、吾能はず」と。季・孟の間を以て之を待す。斉の大夫孔子を害せんと欲す、孔子之を聞く。景公曰く、「吾老いたり、用ふる能はざるなり」と。孔子遂に行き、魯に反る。孔子年四十二、魯の昭公乾侯に卒し、定公立つ。定公立ちて五年、夏、季平子卒し、桓子嗣ぎて立つ。季桓子井を穿ちて土缶を得たり、中に羊の若きもの有り、仲尼に問ひて「狗を得たり」と云ふ。仲尼曰く、「丘の聞く所を以てすれば、羊なり。丘之を聞く、木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊なりと」と。呉越を伐ち、会稽を墮ち、骨節の車を専らにするを得たり。呉、使をして仲尼に問はしむ、「骨は何者か最も大なる」と。仲尼曰く、「禹、羣神を会稽山に致す、防風氏後れて至る、禹殺して之を戮す、其の節車を専らにす、此を大と為す」と。呉の客曰く、「誰をか神と為す」と。
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史記 孔子世家蕢を荷ひて門を過ぐる者有り、曰く、「心有るかな、磬を撃つや。硜硜乎として、己を知る莫きなりや、而して已まんのみ」と。孔子鼓琴を師襄子に学ぶ、十日にして進まず。師襄子曰く、「以て益すべし」と。孔子曰く、「丘已に其の曲を習へり、未だ其の数を得ざるなり」と。間有りて、曰く、「已に其の数を習へり、以て益すべし」と。孔子曰く、「丘未だ其の志を得ざるなり」と。間有りて、曰く、「已に其の志を習へり、以て益すべし」と。孔子曰く、「丘未だ其の為人を得ざるなり」と。間有りて、穆然として深く思ふ所有り、怡然として高く望みて遠く志す所有り。曰く、「丘其の為人を得たり、黯然として黒く、幾然として長く、眼は望羊の如く、四国に王たるが如し、文王に非ずんば其れ誰か能く此を為さん」と。師襄子席を辟けて再拝して曰く、「師蓋し文王操と云へり」と。孔子既に衛に用ひらるるを得ず、将に西して趙簡子に見えんとす。河に至りて竇鳴犢・舜華の死を聞き、河に臨みて嘆じて曰く、「美なるかな水、洋洋乎たり。丘の此を済らざるは、命なるかな」と。子貢趨りて進みて曰く、「敢へて問ふ、何の謂ぞや」と。孔子曰く、「竇鳴犢・舜華は、晋国の賢大夫なり。趙簡子未だ志を得ざるの時、此の両人を須ちて而る後に政に従ふ。其の已に志を得るに及び、之を殺して乃ち政に従ふ。丘之を聞く、胎を刳き夭を殺せば則ち麒麟郊に至らず、沢を竭くし漁を涸らせば則ち蛟龍陰陽を合はせず、巣を覆し卵を毀てば則ち鳳皇翔らず。何となれば則ち、君子は其の類を傷つくるを諱めばなり。夫れ鳥獣の不義に於けるすら尚ほ之を辟くるを知る、而るを況んや丘に於てをや」と。乃ち還りて陬郷に息ひ、陬操を作為して以て之を哀しむ。而して衛に反り、入りて蘧伯玉の家に主たり。他日、霊公兵陳を問ふ。孔子曰く、「俎豆の事は則ち嘗て之を聞けり、軍旅の事は未だ之を学ばざるなり」と。明日、孔子と語る、蜚鴈を見、仰ぎて之を視、色孔子に在らず。孔子遂に行き、復た陳に如く。
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史記 晋世家十五年、悼公国を治むることを師曠に問ふ。師曠曰く、「惟だ仁義を本と為す」と。冬、悼公卒し、子の平公彪立つ。平公の元年、斉を伐つ。斉の霊公与に靡下に戦ふ。斉の師敗走す。晏嬰曰く、「君も亦た勇毋し。何ぞ戦ひを止めざる」と。遂に去る。晋追ひ、遂に臨菑を囲み、尽く其の郭中を焼屠す。東は膠に至り、南は沂に至る。斉皆城守す。晋乃ち兵を引きて帰る。六年、魯の襄公晋に朝す。晋の欒逞罪有り、斉に奔る。八年、斉の荘公微かに欒逞を曲沃に遣り、兵を以て之に随はしむ。斉の兵太行に上る。欒逞曲沃の中より反し、襲ひて絳に入る。絳戒めず。平公自殺せんと欲す。范献子公を止め、其の徒を以て逞を撃つ。逞敗れて曲沃に走る。曲沃逞を攻め、逞死す。遂に欒氏の宗を滅ぼす。逞は、欒書の孫なり。其の絳に入るや、魏氏と謀る。斉の荘公逞の敗るるを聞き、乃ち還り、晋の朝歌を取りて去り、以て臨菑の役に報ゆ。十年、斉の崔杼其の君荘公を弑す。晋斉の乱に因り、伐ちて斉を高唐に敗りて去り、太行の役に報ゆ。十四年、呉の延陵季子来たり使ひし、趙文子・韓宣子・魏献子と語りて曰く、「晋国の政は、卒に此の三家に帰せん」と。十九年、斉晏嬰をして晋に如かしむ。叔向と語る。叔向曰く、「晋は、季世なり。公賦を厚くして台池を為りて政を恤へず。政私門に在り。其れ久しかるべけんや」と。晏子之を然りとす。二十二年、燕を伐つ。二十六年、平公卒し、子の昭公夷立つ。昭公六年にして卒す。六卿彊く、公室卑し。子の頃公去疾立つ。頃公の六年、周の景王崩じ、王子立つを争ふ。晋の六卿王室の乱を平らげ、敬王を立つ。九年、魯の季氏其の君昭公を逐ひ、昭公乾侯に居る。十一年、衛・宋使ひをして晋に魯君を納れんことを請はしむ。
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史記 斉太公世家田氏は大徳無しと雖も、公権を以て私し、民に徳有り、民之を愛す」と。十二年、景公晋に如き、平公に見え、与に燕を伐たんと欲す。十八年、公復た晋に如き、昭公に見ゆ。二十六年、魯の郊に猟し、因りて魯に入り、晏嬰と倶に魯の礼を問ふ。三十一年、魯の昭公、季氏の難を辟け、斉に奔る。斉、千社を以て之を封ぜんと欲す。子家、昭公を止む。昭公乃ち斉に請ひて魯を伐ち、鄆を取りて以て昭公を居らしむ。三十二年、彗星見はる。景公、柏寝に坐し、嘆じて曰く、「堂堂たり。誰か此を有たんや」と。群臣皆泣く。晏子笑ふ。公怒る。晏子曰く、「臣は群臣の諛ふこと甚だしきを笑ふ」と。景公曰く、「彗星東北に出で、斉の分野に当る。寡人以て憂と為す」と。晏子曰く、「君は台を高くし池を深くし、賦斂は得ざるが如くし、刑罰は勝へざるを恐る。茀星将に出でんとす。彗星何ぞ懼れんや」と。公曰く、「禳ふ可きや否や」と。晏子曰く、「神をして祝して来らしむ可くんば、亦禳ひて去らしむ可きなり。百姓の苦怨するもの万を以て数ふ。而るに君一人をして之を禳はしむ。安んぞ能く衆口に勝たんや」と。是の時、景公好んで宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈にして、賦を厚くし刑を重くす。故に晏子此を以て之を諫む。四十二年、呉王闔閭、楚を伐ちて郢に入る。四十七年、魯の陽虎、其の君を攻むるも、勝たず、斉に奔り、斉に魯を伐たんことを請ふ。鮑子、景公を諫め、乃ち陽虎を囚ふ。陽虎亡ぐるを得て、晋に奔る。四十八年、魯の定公と夾谷に好会す。犁鉏曰く、「孔丘は礼を知れども怯なり。請ふ萊人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執へば、志を得可し」と。景公、孔丘の魯に相たるを害とし、其の覇たらんことを懼る。故に犁鉏の計に従ふ。方に会するや、萊の楽を進む。孔子階を歴て上り、有司をして萊人を執へて之を斬らしめ、礼を以て景公を譲む。景公慚ぢ、乃ち魯の侵地を帰して以て謝し、罷め去る。是の歳、晏嬰卒す。五十五年、范・中行、其の君に晋に反す。晋之を攻むること急なり。来りて粟を請ふ。
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