智囊 / 辯才・陸賈・齊地王先生
平原君朱建,為人剛正而有口。辟陽侯得倖呂太后,欲知建,建不肯見。及建母死,貧未有以發喪。方假貸,陸賈素善建,乃令建發喪,而身見辟陽侯,賀之曰:「平原君母死。」辟陽侯曰:「平原君母死,何乃賀我?」賈曰:「前君侯欲知平原君,平原君義不知君,以其母故。夫相知者,當相恤其災危,今其母死,君誠厚送喪,則彼為君死矣。」辟陽侯乃奉百金裞,列侯貴人以辟陽侯故,往賻凡五百金。久之,人或毀辟陽侯,惠帝大怒,下吏,欲誅之。呂太后慚,不可言,大臣多害辟陽侯行,欲遂誅之,辟陽侯困急,使人欲見建,建辭曰:「獄急,不敢見。」
新字:平原君朱建,為人剛正而有口。辟陽侯得倖呂太后,欲知建,建不肯見。及建母死,貧未有以発喪。方仮貸,陸賈素善建,乃令建発喪,而身見辟陽侯,賀之曰:「平原君母死。」辟陽侯曰:「平原君母死,何乃賀我?」賈曰:「前君侯欲知平原君,平原君義不知君,以其母故。夫相知者,当相恤其災危,今其母死,君誠厚送喪,則彼為君死矣。」辟陽侯乃奉百金裞,列侯貴人以辟陽侯故,往賻凡五百金。久之,人或毀辟陽侯,恵帝大怒,下吏,欲誅之。呂太后慚,不可言,大臣多害辟陽侯行,欲遂誅之,辟陽侯困急,使人欲見建,建辞曰:「獄急,不敢見。」
書き下し
平原君朱建、人と為り剛正にして口有り。辟陽侯、呂太后に倖を得て、建を知らんと欲す。建、肯えて見えず。建の母死するに及び、貧しくして未だ以て喪を発する有らず。方に仮貸せんとす。陸賈、素より建と善し。乃ち建をして喪を発せしめ、而して身は辟陽侯に見え、之を賀して曰く、「平原君の母死せり」。辟陽侯曰く、「平原君の母死せり。何ぞ乃ち我を賀するか」。賈曰く、「前に君侯、平原君を知らんと欲す。平原君は義として君を知らず。其の母の故を以てなり。夫れ相知る者は、当に其の災危を相恤むべし。今其の母死せり。君、誠に厚く喪を送らば、則ち彼は君の為に死せん」。辟陽侯乃ち百金を奉りて裞し、列侯・貴人、辟陽侯の故を以て、往きて賻すること凡そ五百金。久しくして、人或いは辟陽侯を毀り、恵帝大いに怒り、吏に下して、之を誅せんと欲す。呂太后は慚じて言う可からず。大臣多く辟陽侯の行を害み、遂に之を誅せんと欲す。辟陽侯、困急し、人をして建に見えんと欲せしむ。建辞して曰く、「獄急にして、敢えて見えず」。
現代語訳
平原君の朱建は、人柄が剛直で弁も立ちました。辟陽侯は呂太后の寵愛を得ていて、朱建と知り合いになろうとしましたが、朱建は会おうとしませんでした。朱建の母が亡くなったとき、貧しくて葬儀を出すことができず、まさに金を借りようとしていました。陸賈はもともと朱建と親しく、朱建に葬儀を出させ、自分は辟陽侯に会って祝いを述べました。「平原君の母が亡くなりました。」辟陽侯は言いました。「平原君の母が亡くなったのに、なぜ私を祝うのか。」陸賈は言いました。「以前、君侯は平原君と知り合いたいと思われました。平原君は、母が存命であったために、義として君と交わりませんでした。知り合いとは、互いの災難や危機を助け合うものです。いま母上が亡くなりました。君が心から手厚く葬儀を援助すれば、彼は君のために死ぬでしょう。」辟陽侯はそこで百金を贈って葬儀を助け、諸侯や貴人も辟陽侯のためにお悔やみを持参して、合わせて五百金になりました。しばらくして、ある人が辟陽侯を中傷し、恵帝は大いに怒り、役人に引き渡して処刑しようとしました。呂太后は恥じて口を出せず、大臣の多くは辟陽侯の行いを憎み、そのまま処刑しようとしました。辟陽侯は困り果て、人を遣わして朱建に会いたいと言わせました。朱建は断って、「獄が急で、お会いするわけにまいりません」と言いました。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
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『春秋左氏伝』宣公十二年 人に先んずる趙嬰齊其の徒をして先づ舟を河に具へしむ、故に敗れて先づ濟る。潘黨既に魏錡を逐ふ。趙旃夜楚の軍に至り、軍門の外に席して、其の徒をして之に入らしむ。楚子乘廣三十乘を為り、分ちて左右と為す。右廣は、雞鳴にして駕し、日中にして說く。左則ち之を受け、日入にして說く。許偃右廣に御し、養由基右と為る。彭名左廣に御し、屈蕩右と為る。乙卯、王左廣に乘りて、以て趙旃を逐ふ。趙旃車を棄てて林に走る、屈蕩之に搏ちて、其の甲裳を得たり。晉人二子の楚の師を怒らせんことを懼るるや、軘車をして之を逆へしむ。潘黨其の塵を望み、騁せて告げしめて曰く、「晉の師至れり」と。楚人も亦た王の晉の軍に入らんことを懼るるや、遂に出でて陳す。孫叔曰く、「之を進めよ。寧ろ我人に薄るとも、人の我に薄ること無かれ。詩に云ふ、『元戎十乘、以て先づ行を啟く』と、人に先んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふこと有り』と、之に薄るなり」と。遂に疾く師を進め、車馳せ卒奔りて、晉の軍に乘ず。桓子為す所を知らず、軍中に鼓して、曰く、「先づ濟る者には賞有り」と。
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尉繚子・戰威善く兵を用うる者は、能く人を奪いて人に奪われず。
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『呻吟語』内篇・修身・四つの與其暴戾の氣を抑ふるは、和平の心を養ふに若かず。既に溢るるの恩を裁つは、分外の望を絕つに若かず。後事の厚きを為すは、先事の簿きを施すに若かず。延年の藥を服するは、保身の方を守るに若かず。
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尉繚子・戰權兵法に曰く、「千人にして権を成し、万人にして武を成す。権先づ人に加ふる者は、敵力交へず。武先づ人に加ふる者は、敵威接せず」と。故に兵は先を貴ぶ。此に勝てば、則ち彼に勝つ。此に勝たざれば、則ち彼に勝たず。凡そ我往けば則ち彼来たり、彼来たれば則ち我往き、相勝敗を為す、此れ戦の理の然るなり。夫れ精誠は神明に在り、戦権は道の極まる所に在り。有る者は之を無くし、無き者は之を有らしむ、安んぞ之を信ずる所あらん。先王の伝聞する所の者は、正に任じ詐を去り、其の慈順を存し、決して留刑無し。故に道を知る者は、必ず先づ止まるを知らざるの敗を図る、悪んぞ必ず往きて功有るに在らんや。軽く進みて戦を求むれば、敵復た止まるを図り、我往きて敵勝を制す。故に兵法に曰く、「求めて之に従ひ、見て之に加へ、主人敢へて当たらざるに之を陵げば、必ず其の権を喪ふ」と。凡そ奪はるる者は気無く、恐るる者は守るべからず、敗るる者は人無し、兵に道無ければなり。意往きて疑はざれば、則ち之に従ふ。敵を奪ひて前無ければ、則ち之に加ふ。明らかに視て高く居れば、則ち之を威す。兵の道極まれり。其の言謹み無ければ、偸みて失はしむ。其の陵犯節無ければ、破る。水のごとく潰し雷のごとく撃てば、三軍乱る。必ず其の危ふきを安んじ、其の患を去り、智を以て之を決す。之を高くするに廊廟の論を以てし、之を重くするに受命の論を以てし、之を鋭くするに踰垠の論を以てすれば、則ち敵国戦はずして服すべし。
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