智囊 / 辯才・狄仁杰
武承嗣、三思營求為太子,狄仁杰從容言於太后曰:「姑姪與母子孰親?陛下立子,則千秋萬歲後配食太廟;若立姪,則未聞姪為天子,而祔姑於廟者也。」太后乃寤。〔述評〕議論到十分醒快處,雖欲不從而不可得。庐陵反正,雖因鸚鵡折翼及雙陸不勝之夢,實姑姪子母之說有以動之。凡戀生前,未有不計死後者。時王方慶居相位,以其子為眉州司士參軍,天後問曰:「君在相位,子何遠乎?」對曰:「庐陵是陛下愛子,今猶在遠;臣之子,安敢相近?」此亦可謂善諷矣。然慈主可以情動,明主當以理格,則天明而不慈,故梁公辱昌宗而不怒。進張柬之而不疑,皆因其明而用之。
新字:武承嗣、三思営求為太子,狄仁杰従容言於太后曰:「姑姪与母子孰親?陛下立子,則千秋万歳後配食太廟;若立姪,則未聞姪為天子,而祔姑於廟者也。」太后乃寤。〔述評〕議論到十分醒快処,雖欲不従而不可得。庐陵反正,雖因鸚鵡折翼及双陸不勝之夢,実姑姪子母之説有以動之。凡恋生前,未有不計死後者。時王方慶居相位,以其子為眉州司士参軍,天後問曰:「君在相位,子何遠乎?」対曰:「庐陵是陛下愛子,今猶在遠;臣之子,安敢相近?」此亦可謂善諷矣。然慈主可以情動,明主当以理格,則天明而不慈,故梁公辱昌宗而不怒。進張柬之而不疑,皆因其明而用之。
書き下し
武承嗣・三思、太子たらんことを営求す。狄仁杰、従容として太后に言いて曰く、「姑姪と母子と孰れか親しき。陛下、子を立てば、則ち千秋万歳の後、太廟に配食せん。若し姪を立てば、則ち未だ姪の天子と為りて、姑を廟に祔する者を聞かざるなり」。太后乃ち寤る。〔述評〕議論十分に醒快なる処に到れば、従わざらんと欲すと雖も得べからず。廬陵の反正は、鸚鵡の翼を折ると雙陸の勝たざるとの夢に因ると雖も、実は姑姪・子母の説、以て之を動かす有り。凡そ生前を恋う者は、未だ死後を計らざる者有らず。時に王方慶、相の位に居り、其の子を以て眉州の司士参軍と為す。天后問いて曰く、「君、相の位に在り、子何ぞ遠きや」。対えて曰く、「廬陵は是れ陛下の愛子なるに、今猶お遠きに在り。臣の子、安くんぞ敢えて相い近づかん」。此れも亦た善く諷すと謂うべし。然れども慈主は情を以て動かすべく、明主は当に理を以て格すべし。則天は明にして慈ならず。故に梁公は昌宗を辱めて怒らず、張柬之を進めて疑わず。皆其の明に因りて之を用う。
現代語訳
武承嗣と武三思は、太子になろうと画策していました。狄仁杰は落ち着いた様子で太后に言いました。「叔母と甥、母と子では、どちらが親しいでしょうか。陛下が子を立てれば、千年万年ののち、太廟に合わせ祀られます。もし甥を立てれば、甥が天子となって叔母を廟に合祀したという例は聞いたことがありません。」太后はそこで悟りました。〔述評〕議論が十分にはっきりと痛快な所に達すれば、従うまいとしても従わずにいられない。廬陵王が復位できたのは、鸚鵡が翼を折る夢や双陸で勝てない夢のためだとはいえ、実際には叔母と甥、母と子の説が太后を動かしたのである。生前を恋しがる者は、死後を考えずにはいられない。当時、王方慶は宰相の位にあり、その子を眉州の司士参軍にしていた。天后が「あなたは宰相の位にいるのに、なぜ息子を遠くにやるのか」と問うと、「廬陵王は陛下の愛する子でありながら、いまも遠くにおられます。臣の子がどうして近づけましょうか」と答えた。これもまた巧みな諷諫といえる。しかし慈しみのある君主は情で動かせるが、聡明な君主は理で正すべきである。則天は聡明で慈しみはなかった。だから梁公は昌宗を辱めても怒られず、張柬之を推薦しても疑われなかった。いずれも則天の聡明さに乗じて用いたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『韓非子』說難第十二凡そ說の難きは、吾が知の以て之を說く有るの難きに非ざるなり。又た吾が辯の能く吾が意を明らかにするの難きに非ざるなり。又た吾が敢へて横失して能く盡くすの難きに非ざるなり。凡そ說の難きは、說く所の心を知り、吾が說を以て之に當つ可きに在り。說く所名高を爲すに出づる者なるに、之を說くに厚利を以てすれば、則ち節を下して卑賤に遇せらると見られ、必ず弃(す)て遠ざけらる。說く所厚利に出づる者なるに、之を說くに名高を以てすれば、則ち心無くして事情に遠しと見られ、必ず收められず。
-
史記 殷本紀先王の言勉めざる可からず』と。曰く、『道ならずんば、国に在る毋かれ、女我を怨む毋かれ』と」と。以て諸侯に令す。伊尹咸有一徳を作り、咎単明居を作る。湯乃ち正朔を改め、服色を易へ、白を上び、朝会は昼を以てす。湯崩じ、太子太丁未だ立たずして卒す。是に於て迺ち太丁の弟外丙を立つ。是を帝外丙と為す。帝外丙即位三年にして崩じ、外丙の弟中壬を立つ。是を帝中壬と為す。帝中壬即位四年にして崩じ、伊尹迺ち太丁の子太甲を立つ。太甲は、成湯の適長孫なり。是を帝太甲と為す。帝太甲の元年、伊尹伊訓を作り、肆命を作り、徂后を作る。
-
『春秋左氏伝』昭公七年 其の父薪を析く晉侯間有り。子產に莒の二方鼎を賜ふ。子產豐施の為に州田を韓宣子に歸して曰く、「日(さき)に君夫の公孫段を以て、能く其の事に任ふと為して、之に州田を賜ふ。今祿無くして早世し、久しく君の德を享くるを獲ず。其の子敢へて有たず、敢へて以て君に聞せず、私かに諸を子に致す」と。宣子辭す。子產曰く、「古人言有りて曰く、『其の父薪を析くも、其の子負荷する克はず』と。施將に其の先人の祿に任ふる能はざるを懼る。其れ況んや能く大國の賜に任へんや。縱ひ吾子政を為して可なりとも、後の人若し屬(たまたま)疆埸の言有らば、敝邑戾を獲て、豐氏其の大討を受けん。吾子州を取らば、是れ敝邑を戾より免れしめて、豐氏を建置するなり。敢へて以て請ふと為す」と。宣子之を受け、以て晉侯に告ぐ。晉侯以て宣子に與ふ。宣子初言の為に、之を有つを病み、以て原縣を樂大心に易ふ。
-
史記 樊酈滕灌列伝三歳、絳侯勃相を免ぜられて国に就き、嬰丞相と為り、太尉の官を罷む。是の歳、匈奴大いに北地・上郡に入り、丞相嬰をして騎八万五千を将ゐて往きて匈奴を撃たしむ。匈奴去り、済北王反し、詔して乃ち嬰の兵を罷む。後歳余にして、嬰丞相を以て卒し、諡して懿侯と曰ふ。子平侯阿代りて侯たり。二十八年にして卒し、子彊代りて侯たり。十三年、彊罪有り、絶ゆること二歳。元光三年、天子灌嬰の孫賢を封じて臨汝侯と為し、灌氏の後を続がしむ、八歳にして、賕を行ふに坐して罪有り、国除かる。
-
史記 蕭相国世家何頓首して曰く、「帝之を得たり。臣死すとも恨みず」と。何田宅を置くに必ず窮処に居り、家を為るに垣屋を治めず。曰く、「後世賢ならば、吾が倹を師とせよ。賢ならずんば、勢家の奪ふ所と為ること毋からん」と。孝恵二年、相国何卒し、謚して文終侯と為す。後嗣罪を以て侯を失ふ者四世、絶ゆ、天子輒ち複た何の後を求め、封じて酇侯を続がしむ、功臣之に比するを得る莫し。
-
史記 五帝本紀堯子丹朱の不肖にして、天下を授くるに足らざるを知る。是に於て乃ち権りて舜に授く。舜に授くれば、則ち天下其の利を得て丹朱病む。丹朱に授くれば、則ち天下病みて丹朱其の利を得。堯曰く、「終に天下の病を以て一人を利せず」と。而して卒に舜に授くるに天下を以てす。堯崩じ、三年の喪畢はり、舜丹朱に譲りて南河の南に辟く。諸侯の朝覲する者は丹朱に之かずして舜に之き、獄訟する者は丹朱に之かずして舜に之き、謳歌する者は丹朱を謳歌せずして舜を謳歌す。舜曰く、「天なるかな」と。而る後に中国に之きて天子の位を践む。是を帝舜と為す。虞舜は、名を重華と曰ふ。重華の父を瞽叟と曰ひ、瞽叟の父を橋牛と曰ひ、橋牛の父を句望と曰ひ、句望の父を敬康と曰ひ、敬康の父を窮蟬と曰ひ、窮蟬の父を帝顓頊と曰ひ、顓頊の父を昌意と曰ふ。以て舜に至るまで七世なり。窮蟬より以て帝舜に至るまで、皆微にして庶人為り。舜の父瞽叟は盲にして、舜の母死し、瞽叟更に妻を娶りて象を生む。象は傲なり。瞽叟後妻の子を愛し、常に舜を殺さんと欲す。舜避け逃る。小過有るに及べば、則ち罪を受く。父及び後母と弟とに順事し、日に以て篤謹にして、懈ること有る匪し。舜は、冀州の人なり。舜歴山に耕し、雷沢に漁し、河浜に陶し、什器を寿丘に作り、時に負夏に就く。舜の父瞽叟は頑、母は嚚、弟象は傲にして、皆舜を殺さんと欲す。舜順適して子の道を失はず、兄弟に孝慈なり。殺さんと欲するも、得可からず。即ち求むれば、嘗に側に在り。舜年二十にして孝を以て聞こゆ。三十にして帝堯用ゐる可き者を問ふに、四嶽咸虞舜を薦めて、可なりと曰ふ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る