智囊 / 敏悟・拆字
謝石,潤夫,成都人,宣和間至京師,以拆字言人禍福。求相者但隨意書一字,即就其字離析而言,無不奇中,名聞九重,上皇因書一「朝」字,令中貴人持往試之。石見字,即端視中貴人曰:「此非觀察所書也。」中貴人愕然曰:「但據字言之。」石以手加額曰:「『朝』字,離之為『十月十日』字,非此月此日所生之天人,當誰書也!」一座盡驚。中貴馳奏。翌日,召至後苑,令左右及宮嬪書字示之,論說俱有精理,錫齎甚厚,補承信郎。緣此四方求相者,其門如市。
新字:謝石,潤夫,成都人,宣和間至京師,以拆字言人禍福。求相者但随意書一字,即就其字離析而言,無不奇中,名聞九重,上皇因書一「朝」字,令中貴人持往試之。石見字,即端視中貴人曰:「此非観察所書也。」中貴人愕然曰:「但拠字言之。」石以手加額曰:「『朝』字,離之為『十月十日』字,非此月此日所生之天人,当誰書也!」一座尽驚。中貴馳奏。翌日,召至後苑,令左右及宮嬪書字示之,論説倶有精理,錫齎甚厚,補承信郎。縁此四方求相者,其門如市。
書き下し
謝石、字は潤夫、成都の人なり。宣和の間、京師に至り、字を拆いて人の禍福を言う。相を求むる者、但だ意に随って一字を書けば、即ち其の字に就いて離析して言い、奇しく中たらざる無し。名は九重に聞こゆ。上皇、因って一つの「朝」の字を書し、中貴人をして持ち往きて之を試みしむ。石、字を見て、即ち端しく中貴人を視て曰く、「此れ観察の書する所に非ざるなり」と。中貴人、愕然として曰く、「但だ字に拠りて之を言え」と。石、手を以て額に加えて曰く、「「朝」の字は、離せば「十月十日」の字と為る。此の月此の日に生まれし所の天人に非ずんば、当に誰か書かん」と。一座、尽く驚く。中貴、馳せて奏す。翌日、召されて後苑に至り、左右及び宮嬪をして字を書して之に示さしむ。論説、倶に精理有り。錫賚甚だ厚く、承信郎に補せらる。此に縁って四方に相を求むる者、其の門、市の如し。
現代語訳
謝石は字を潤夫といい、成都の人である。宣和の年間に都へ出て、文字を分解して人の吉凶を言い当てた。占ってほしい者が思いつくままに一字を書くと、その字を分けて論じ、驚くほどよく当たった。評判は宮中にまで届いた。上皇は「朝」の字を書き、側近の宦官に持たせて試させた。謝石は字を見るなり、宦官をじっと見て言った。「これは観察(あなた)が書いたものではありません」。宦官は驚いて言った。「ただ字について言ってくれればよい」。謝石は手を額に当てて言った。「『朝』の字は分けると『十月十日』になります。この月この日に生まれた天子さまでなければ、誰が書きましょう」。一座は皆驚き、宦官は急いで報告した。翌日、後苑に召され、左右の者や后妃にも字を書かせて見せたが、その論じ方はどれも道理にかなっていた。褒美は手厚く、承信郎の官を与えられた。これより四方から占いを求める者が押し寄せ、門前は市のようになった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 范雎蔡沢列伝此の時に当たり、秦の昭王、謁者王稽を魏に使はす。鄭安平詐りて卒と為り、王稽に侍す。王稽問ふ、「魏に賢人の与に倶に西游すべき者有るか」と。鄭安平曰く、「臣の里中に張禄先生有り、君に見えて天下の事を言はんと欲す。その人仇有り、敢へて昼見えず」と。王稽曰く、「夜与に倶に来たれ」と。鄭安平、夜張禄と王稽に見ゆ。語未だ究まらざるに、王稽、范睢の賢なるを知り、謂ひて曰く、「先生、我を三亭の南に待て」と。私かに約して去る。王稽、魏を辞して去り、過りて范睢を載せて秦に入る。湖に至り、車騎の西より来たるを望見す。范睢曰く、「彼の来たる者は誰と為す」と。王稽曰く、「秦の相穣侯、東して県邑を行く」と。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は秦の権を専らにし、諸侯の客を内るるを悪むと。此れ恐らくは我を辱めん、我寧ろ且く車中に匿れん」と。頃有りて、穣侯果たして至り、王稽を労ひ、因りて車を立てて語りて曰く、「関東に何の変か有る」と。曰く、「有る無し」と。また王稽に謂ひて曰く、「謁君、諸侯の客子と倶に来たること無きを得んや。益無し、徒らに人の国を乱すのみ」と。王稽曰く、「敢へてせず」と。即ち別れ去る。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は智士なり、その事を見ること遅し。郷者車中に人有るを疑ひて、これを索むることを忘る」と。是に於いて范睢車を下りて走りて曰く、「此れ必ずこれを悔いん」と。行くこと十余里、果たして騎をして還りて車中を索めしむ、客無し、乃ち已む。王稽遂に范睢と咸陽に入る。已に使ひを報じ、因りて言ひて曰く、「魏に張禄先生有り、天下の弁士なり。曰く『秦王の国は累卵より危ふし、臣を得ば則ち安からん。然れども書を以て伝ふべからず』と。臣故に載せて来たる」と。秦王信ぜず、舎して食はしむるに草具を以てす。命を待つこと歳余。是の時に当たり、昭王已に立つこと三十六年。南のかた楚の鄢郢を抜き、楚の懐王秦に幽死す。秦東のかた斉を破る。湣王嘗て帝と称し、後これを去る。数々三晋を困しむ。天下の弁士を厭ひ、信ずる所無し。
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