智囊 / 敏悟・曹翰・鄭欽說
欽說天性敏慧,精曆術,開元後累官右補闕內供奉。初,梁之大同四年,太常任昉於鍾山壙中得銘曰:「龜言土,蓍言水,甸服黃鍾起靈址。瘞在三上庚,墮遇七中己,六千三百浹辰交,二九重三四百圮。」昉遍窮之,莫能辨,因遺戒子孫曰:「世世以銘訪通人,有得其解者,吾死無恨。」昉五世孫升之隱居商洛,寫以授欽說,欽說時出使,得之於長樂驛,至敷水三十里輒悟,曰:「此卜宅者搜葬之歲月,而先識墓圮日辰也。『甸服』,五百也;『黃鍾』,十二也。由大同四年卻求漢建武四年,凡五百一十二年。葬以三月十日庚寅:『三上庚』也。圮以七月十二日己巳:『七中己』也。『浹辰』,十二也。建武四年三月至大同四年七月,六千三百一十二月,月一交,故曰:『千三百浹辰交』。『二九』,十八也;『重三』,六也。建武四年三月十日,距大同四年七月十二日,十八萬六千四百日,故曰:『九重三四百圮』。」升之大驚,服其超悟。
新字:欽説天性敏慧,精暦術,開元後累官右補闕内供奉。初,梁之大同四年,太常任昉於鍾山壙中得銘曰:「亀言土,蓍言水,甸服黄鍾起霊址。瘞在三上庚,堕遇七中己,六千三百浹辰交,二九重三四百圮。」昉遍窮之,莫能弁,因遺戒子孫曰:「世世以銘訪通人,有得其解者,吾死無恨。」昉五世孫升之隠居商洛,写以授欽説,欽説時出使,得之於長楽駅,至敷水三十里輒悟,曰:「此卜宅者捜葬之歳月,而先識墓圮日辰也。『甸服』,五百也;『黄鍾』,十二也。由大同四年却求漢建武四年,凡五百一十二年。葬以三月十日庚寅:『三上庚』也。圮以七月十二日己巳:『七中己』也。『浹辰』,十二也。建武四年三月至大同四年七月,六千三百一十二月,月一交,故曰:『千三百浹辰交』。『二九』,十八也;『重三』,六也。建武四年三月十日,距大同四年七月十二日,十八万六千四百日,故曰:『九重三四百圮』。」升之大驚,服其超悟。
書き下し
欽説、天性敏慧にして、暦術に精しく、開元の後、累官して右補闕内供奉たり。初め、梁の大同四年、太常任昉、鍾山の壙中に銘を得たり。曰く、「亀は土を言い、蓍は水を言う。甸服黄鍾、霊址を起こす。瘞むるは三上庚に在り、墮つるは七中己に遇う。六千三百浹辰交わり、二九重三四百圮る」と。昉、遍くこれを窮むれども、弁ずる能わず。因りて子孫に遺戒して曰く、「世世、銘を以て通人に訪え。その解を得る者有らば、吾死すとも恨み無し」と。昉の五世孫升之、商洛に隠居し、写してこれを欽説に授く。欽説、時に使いに出で、これを長楽駅に得、敷水に至ること三十里にして輒ち悟りて曰く、「これ宅を卜する者、葬の歳月を捜し、而して先に墓の圮るる日辰を識るなり。『甸服』は五百なり、『黄鍾』は十二なり。大同四年より却って漢の建武四年を求むれば、凡そ五百十二年なり。葬は三月十日庚寅を以てす。『三上庚』なり。圮るるは七月十二日己巳を以てす。『七中己』なり。『浹辰』は十二なり。建武四年三月より大同四年七月に至るまで、六千三百十二月、月ごとに一たび交わる、故に『千三百浹辰交』と曰う。『二九』は十八なり、『重三』は六なり。建武四年三月十日より、大同四年七月十二日を距つること、十八万六千四百日、故に『九重三四百圮』と曰う」と。升之大いに驚き、その超悟に服す。
現代語訳
鄭欽説は生まれつき聡明で、暦術に詳しく、開元の後、昇進を重ねて右補闕・内供奉となった。初め、梁の大同四年、太常の任昉は鍾山の墓穴の中で銘文を得た。そこにはこうあった。「亀は土を言い、蓍は水を言う。甸服と黄鍾、霊址を起こす。埋葬は三上庚にあり、崩れるのは七中己に遇う。六千三百の浹辰が交わり、二九に重三、四百で崩れる。」任昉はあらゆる方法で究めたが、意味を解けなかった。そこで子孫に遺言した。「代々この銘を博識の人に尋ねよ。その解を得る者がいれば、私は死んでも恨みはない。」任昉の五代の孫の任升之は商洛に隠居し、これを写して欽説に与えた。欽説はそのとき使者として出かけ、長楽駅でこれを受け取り、敷水まで三十里行ったところでたちまち悟って言った。「これは墓所を占う者が、埋葬の年月を探し、あらかじめ墓の崩れる日取りを記したものだ。『甸服』は五百、『黄鍾』は十二を指す。大同四年から遡って漢の建武四年を求めると、五百十二年になる。埋葬は三月十日の庚寅で、これが『三上庚』である。崩れるのは七月十二日の己巳で、これが『七中己』である。『浹辰』は十二日をいう。建武四年三月から大同四年七月まで、六千三百十二か月で、月ごとに一度めぐるので、『千三百浹辰交』という。『二九』は十八、『重三』は六である。建武四年三月十日から大同四年七月十二日まで十八万六千四百日で、故に『九重三四百圮る』という。」任升之は大いに驚き、その卓越した悟りに感服した。
解説
この章句が説くこと
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