智囊 / 敏悟・曹翰・鄭欽說
曹翰從征幽州,方攻城,卒掘土得蟹以獻。翰曰:「蟹,水物,而陸居,失所也。且多足,彼援將至,不可進拔之象。況蟹者,解也,其班師乎?」已而果驗。
新字:曹翰従征幽州,方攻城,卒掘土得蟹以献。翰曰:「蟹,水物,而陸居,失所也。且多足,彼援将至,不可進抜之象。況蟹者,解也,其班師乎?」已而果験。
書き下し
曹翰、幽州を征するに従い、まさに城を攻めんとするに、卒、土を掘りて蟹を得てこれを献ず。翰曰く、「蟹は水物なり、而るに陸に居る、所を失うなり。かつ足多し、彼の援将に至らんとし、進みて抜くべからざるの象なり。いわんや蟹は解なり、それ師を班さんか」と。已にして果たして験あり。
現代語訳
曹翰が幽州の遠征に従軍し、城を攻めようとしていたとき、兵士が土を掘って蟹を見つけ、それを献上した。曹翰は言った。「蟹は水の生き物なのに、陸にいる。居場所を失っているのだ。しかも足が多い。これは敵の援軍が来るので、進んで城を落とすことはできないという象である。まして蟹は『解』と音が通じる。軍を引き上げることになるだろうか。」やがて果たして的中した。
解説
土から出てきた蟹を、居場所を失った姿、足が多い援軍、解という音の連想で、撤退の兆しと読む話です。現代の感覚では単なる語呂合わせですが、当時の将は、こうした偶然の事象を士気や判断の材料にしていました。曹翰の読みが的中したかは、記述の簡略さからも確かでなく、事後の脚色の可能性があります。管理職は、偶然の出来事にもっともらしい意味づけをして自信を持つ危うさを自覚した上で、小さな兆候から全体の状況を問い直す着眼は持つとよいでしょう。ただし、撤退のような重大な決断は、兆候ではなく実際の戦況判断を土台にすべきです。
この章句が説くこと
蟹失所援将班師兆し連想
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