智囊 / 敏悟・杜瓊・譙周
漢末杜瓊嘗言:「古名官職,無言曹者。始自漢以來,官盡言曹。吏言『屬曹』,卒言『侍曹』,此殆天意乎!」譙周因曰:「靈帝名二子曰史侯、董侯。後即帝皆免為侯,亦此類矣。然則先帝諱備,備者,具也;後主諱禪,禪者,授也。言劉已具矣,當授他人也。」又言:「曹者,眾也;魏者,大也。眾而大,天下其當會也。具而授,其無後矣!」及蜀亡,競神其語。周曰:「由杜君之詞廣之,非有獨至之異也!」咸熙二年,周書板曰:「典午忽兮,月酉沒兮。」典午,謂司馬;月酉,八月也。至八月而晉文帝崩。
新字:漢末杜瓊嘗言:「古名官職,無言曹者。始自漢以来,官尽言曹。吏言『属曹』,卒言『侍曹』,此殆天意乎!」譙周因曰:「霊帝名二子曰史侯、董侯。後即帝皆免為侯,亦此類矣。然則先帝諱備,備者,具也;後主諱禅,禅者,授也。言劉已具矣,当授他人也。」又言:「曹者,衆也;魏者,大也。衆而大,天下其当会也。具而授,其無後矣!」及蜀亡,競神其語。周曰:「由杜君之詞広之,非有独至之異也!」咸熙二年,周書板曰:「典午忽兮,月酉没兮。」典午,謂司馬;月酉,八月也。至八月而晋文帝崩。
書き下し
漢末、杜瓊、嘗て言う、「古の名官職には、曹と言う者無し。漢より以来、官は尽く曹と言う。吏は『属曹』と言い、卒は『侍曹』と言う。これ殆ど天意か」と。譙周因りて曰く、「霊帝、二子に名づけて史侯・董侯と曰う。後に帝に即き、皆免ぜられて侯と為る、またこの類なり。然らば則ち先帝の諱は備、備は具なり。後主の諱は禅、禅は授なり。劉已に具わり、当に他人に授くべしと言うなり」と。また言う、「曹は衆なり、魏は大なり。衆にして大、天下それ当に会すべきなり。具わりて授く、それ後無からん」と。蜀亡ぶに及び、競いてその語を神とす。周曰く、「杜君の詞に由りてこれを広めたるのみ。独り至るの異有るに非ず」と。咸熙二年、周、板に書して曰く、「典午忽たり、月酉没す」と。典午は司馬を謂い、月酉は八月なり。八月に至りて晋の文帝崩ず。
現代語訳
後漢の末、杜瓊はかつて言った。「昔の名のある官職には、『曹』という字がつくものはなかった。漢以来、官はみな曹という。役人は『属曹』といい、兵卒は『侍曹』という。これはおそらく天意だろう。」譙周はそこで言った。「霊帝は二人の子に史侯・董侯と名づけた。のちに帝位に就いたが、みな退けられて侯になった。これも同じたぐいだ。そうだとすれば、先帝の名は備で、備は具(そろう)の意味だ。後主の名は禅で、禅は授(ゆずる)の意味だ。劉氏はすでに全てが備わり、他の人に授けるべきだと言っている。」さらに言った。「曹は衆(多い)、魏は大(大きい)だ。多く大きければ、天下は集まるべきだ。備わって授けるなら、劉氏は後継がなくなる。」蜀が滅びると、人々は競ってこの言葉を神秘化した。譙周は言った。「杜君の言葉に基づいて広げただけで、私独自の特別な異説ではない。」咸熙二年、譙周は板に書いた。「典午は忽ちにして、月酉は没す。」典午は司馬氏を指し、月酉は八月を指す。八月になって晋の文帝(司馬昭)が亡くなった。
解説
この章句が説くこと
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