智囊 / 億中・夏侯霸
夏侯霸降蜀,姜維問曰:「司馬公既得彼政,當復有征伐之志否?」霸曰:「司馬公自當作家門,彼方有內志,未遑及外事也。公提輕卒,徑抵中原,因食於敵,彼可窺而擾也。然有鍾士季者,其人雖少,有膽略,精練策數,終為吳、蜀之憂,但非常之人,必不為人用,而人亦必不能用之,士季其不免乎?」後十五年,而會果滅蜀,蜀滅而會反,皆如霸言。
新字:夏侯覇降蜀,姜維問曰:「司馬公既得彼政,当復有征伐之志否?」覇曰:「司馬公自当作家門,彼方有内志,未遑及外事也。公提軽卒,径抵中原,因食於敵,彼可窺而擾也。然有鍾士季者,其人雖少,有胆略,精練策数,終為呉、蜀之憂,但非常之人,必不為人用,而人亦必不能用之,士季其不免乎?」後十五年,而会果滅蜀,蜀滅而会反,皆如覇言。
書き下し
夏侯霸、蜀に降る。姜維問いて曰く、「司馬公は既に彼の政を得たり、当に復た征伐の志有るべきか否か」と。霸曰く、「司馬公は自ら当に家門を作すべく、彼は方に内志有りて、未だ外事に及ぶに遑あらず。公、軽卒を提げて、径ちに中原に抵り、敵に因りて食せば、彼は窺いて擾すべし。然れども鍾士季なる者有り。其の人は少しと雖も、膽略有り、策数に精練して、終に呉・蜀の憂いと為らん。但だ非常の人は、必ず人に用いらるること為らずして、人も亦た必ず之を用うる能わず。士季は其れ免れざらんか」と。後十五年にして、会は果たして蜀を滅ぼし、蜀滅びて会は反す。皆な霸の言の如し。
現代語訳
夏侯霸が蜀に降伏した。姜維は尋ねた。「司馬公は魏の政権を握った。再び征伐の志があるだろうか」。霸は言った。「司馬公は自ら一家の基盤を作ることを考えており、彼は今、内に野心があって、外のことに手が回りません。公が軽装の兵を率いて、まっすぐ中原に攻め入り、敵地で食糧を調達すれば、彼を窺って乱すことができます。しかし鍾士季という者がいます。その人は若いですが、胆力と謀略があり、策略に習熟していて、結局は呉と蜀の憂いとなるでしょう。ただ、非常の人は人に使われることをよしとせず、人もまたこの人を使いきれません。士季は免れないでしょう」。十五年後、鍾会は予想どおり蜀を滅ぼし、蜀が滅びると会は反乱を起こした。すべて霸の言ったとおりであった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』三国権初め、晋の文王、鍾会を遣わして蜀を伐たしめんと欲す。邵悌曰く「今、鍾会は十万余の衆を率いて蜀を伐つ。愚謂えらく、会は単身にして重任無し。余人に若かず」と。文王曰く「我、寧んぞ当に復た此を知らざらんや。若し蜀を滅ぼして後、卿の慮る所の如くんば、当に何ぞ能く辦ぜん。凡そ敗軍の将は、以て勇を語るべからず。亡国の大夫は、以て存を図るべからず。心胆已に破るるが故なり。若し蜀已に破れなば、遺人震恐し、与に事を図るに足らず。中国の将士は各々自ら帰らんことを思い、肯えて与に同じくせざるなり。若し悪を作さば、祗だ自ら族せらるるのみ」と。会果たして姜維と反し、魏の将士憤発して会及び維を殺すなり。〕
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『長短経』懼戒鍾会・鄧艾既に蜀を破り、蜀主降る。会、艾を搆え、艾は檻車にて徴さる。会、陰かに異図を懐き、厚く蜀の将姜維等を待つ。維見て其の心を知り、擾乱を搆成して、徐ろに克復を図るべしと謂う。乃ち詭りて之に説きて曰く「聞く、君は淮南より以来、算に遺策無く、晋道の克く昌んなるは、皆君の之を為すなり、と。今、復た蜀を定め、威名世を震わし、民は其の功を高しとし、而して主は其の謀を畏る。此を以て安くにか帰せんと欲する。夫れ韓信は漢に擾攘に背かずして、既に平らぐに疑われ、大夫種は范蠡に五湖に従わずして、卒に剣に伏して妄りに死す。豈に闇主愚臣ならんや。利害之をして然らしむるなり。今、君は大功既に立ち、大徳已に著る。何ぞ陶朱の舟を汎べ跡を絶つに法りて、功を全うし身を保ち、峨眉の嶺に登りて、赤松に従いて遊ばざる」と。会曰く「君の言は遠し。我行うこと能わず。且つ今の道を為すは、或いは未だ此に尽きざるなり」と。維曰く「其の他は則ち君の智力の能くする所にして、老夫を煩わす無し」と。是に由りて情好歓ぶこと甚だし。自ら益州牧と称して以て叛き、維に兵五万人を授けて、前駆と為さしめんと欲す。魏の将士憤発して、会及び維を殺す。
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『智囊』敏悟・杜瓊・譙周漢末、杜瓊、嘗て言う、「古の名官職には、曹と言う者無し。漢より以来、官は尽く曹と言う。吏は『属曹』と言い、卒は『侍曹』と言う。これ殆ど天意か」と。譙周因りて曰く、「霊帝、二子に名づけて史侯・董侯と曰う。後に帝に即き、皆免ぜられて侯と為る、またこの類なり。然らば則ち先帝の諱は備、備は具なり。後主の諱は禅、禅は授なり。劉已に具わり、当に他人に授くべしと言うなり」と。また言う、「曹は衆なり、魏は大なり。衆にして大、天下それ当に会すべきなり。具わりて授く、それ後無からん」と。蜀亡ぶに及び、競いてその語を神とす。周曰く、「杜君の詞に由りてこれを広めたるのみ。独り至るの異有るに非ず」と。咸熙二年、周、板に書して曰く、「典午忽たり、月酉没す」と。典午は司馬を謂い、月酉は八月なり。八月に至りて晋の文帝崩ず。
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『智囊』億中・劉惔漢主の李勢は驕淫にして、国事を恤えず。桓温、師を帥いて之を伐ち、表を拝して即ち行く。朝廷は蜀道の険遠にして、温の衆は少なくして深く入るを以て、皆憂えと為す。唯だ劉惔のみ必ず克つと以為う。或ひと其の故を問う。惔曰く、「博を以て之を知る。温は善く博する者なり。必ず得ざれば、則ち為さず。但だ恐らくは蜀に克ちし後、朝廷を専制せんことを」と。〔按〕惔は毎に温の才を奇とし、而して其の不臣の志有るを知り、会稽王昱に謂いて曰く、「温は形勢の地に居らしむべからず」と。昱は従わず。温の既に蜀に克つに及び、昱は其の威名を憚り、乃ち殷浩を引きて以て之に抗せしめ、是れより浸く疑貳を成す。浩の北伐の功無きに至り、而して温は遂に制すべからず。
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『長短経』懼戒〔張華、外鎮より当に徴されて尚書と為らんとす。令馮紞之を疾む。帝に侍し、従容として魏晋の故事を論じ、因りて曰く「臣嘗て謂えらく、鍾会の反は、頗る太祖に由る」と。帝勃然として曰く「何の言ぞや」と。紞曰く「臣以為えらく、夫れ善く御する者は、必ず六轡盈縮の間を識り、善く治むる者は、必ず官方控帯の宜しきを審らかにす。是の故に漢高の八王は、寵過ぎたるを以て夷滅し、光武の諸将は、損益を以て克く終う。上に仁暴の異有り、下に愚智の殊有るに非ず。蓋し抑揚予奪之をして然らしむるか。鍾会は才見に限り有り、而して太祖の奨誘太だ過ぎ、其の謀猷を嘉し、其の名位を盛んにし、授くるに重勢を以てす。故に会は自ら謂えらく、算に遺策無く、功は賞せられざるに在り、と。輈張して利害し、遂に凶逆を搆うるのみ。向に太祖其の小能を録し、節するに大礼を以てし、之を抑うるに権勢を以てし、之を納るるに軌度を以てせば、則ち逆心由りて生ずること無く、乱事階りて成ること無きなり」と。世祖曰く「然り」と。紞稽首して曰く「陛下既に愚臣の言を然りとせば、堅氷の道を思い、会の如き徒をして復た覆敗を致さしむること無かれ」と。世祖曰く「当今、豈に会の如き者有らんや」と。紞曰く「陛下の謀謨の臣、戎馬の任を総ぶる者は、皆陛下の聖恩に在るのみ」と。世祖黙然たり。俄かにして華を徴して官を免ず。〕
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『長短経』君徳虞南曰く「何晏称す『唯だ深きなり、故に能く天下の志に通ず、夏侯太初是なり。惟だ機なり、故に能く天下の務を成す、司馬子元是なり』と。故に王佐の才は、早日に著るるを知る。爽を誅するの際に及び、智略已に宣ぶ。欽・倹、兵を称するに、全軍もて独り克つ。此れ以て其の英図を見るに足る。道は三分に盛んなりと雖も、終身北面し、威名は主を振わすも臣節は虧けず。侯服して全きに帰す。斯に於て美と為す。太祖嗣ぎ興り、克く禍乱を寧んず。南は淮海を定め、西は庸蜀を平らぐ。役は時を踰えず、厥の功重しと為す。高貴の歴を纂ぐに及び、聡明夙智なるも、忠を竭くし協賛して伊周に迹を擬する能わず。遂に乃ち士彦を偽謗し、罪を成済に委ね、自ら逆節を貽し、終に悪名を享く。斯の言の玷は、磨く可からざるなり」と。
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