智囊 / 敏悟・虞世基・周之屏
隋煬幸廣陵。既開渠,而舟至寧陵界,每阻水淺。以問虞世基。答曰:「請為鐵腳木鵝,長一丈二尺,上流放下,如木鵝住,即是淺處。帝依其言驗之,自雍丘至灌口,得一百二十九處。周之屏在南粵時,江陵欲行丈量,有司以瑤僮田不可問。比入覲,藩、臬、郡、邑合言於朝,江陵厲聲曰:「只管丈。」周悟其意,揖而出。眾尚囁嚅,江陵笑曰:「去者,解事人也。」眾出以問云何,曰:「相君方欲一法度以齊天下,肯明言有田不可丈耶?伸縮當在吾輩。」眾方豁然。
新字:隋煬幸広陵。既開渠,而舟至寧陵界,毎阻水浅。以問虞世基。答曰:「請為鉄脚木鵝,長一丈二尺,上流放下,如木鵝住,即是浅処。帝依其言験之,自雍丘至灌口,得一百二十九処。周之屏在南粵時,江陵欲行丈量,有司以瑤僮田不可問。比入覲,藩、臬、郡、邑合言於朝,江陵厲声曰:「只管丈。」周悟其意,揖而出。衆尚囁嚅,江陵笑曰:「去者,解事人也。」衆出以問云何,曰:「相君方欲一法度以斉天下,肯明言有田不可丈耶?伸縮当在吾輩。」衆方豁然。
書き下し
隋の煬、広陵に幸す。既に渠を開き、而して舟、寧陵の界に至りて、毎に水浅きに阻まる。以て虞世基に問う。答えて曰く、「請う、鉄脚の木鵝を為り、長さ一丈二尺、上流より放ち下さば、木鵝住まれば、即ちこれ浅き処ならん」と。帝その言に依りてこれを験し、雍丘より灌口に自り、一百二十九処を得たり。周之屏、南粤に在りし時、江陵、丈量を行わんと欲するに、有司、瑤僮の田は問うべからずと以う。入覲に比び、藩・臬・郡・邑、合わせて朝に言う。江陵、声を厲しくして曰く、「只だ管ず丈れ」と。周、その意を悟り、揖して出づ。衆、尚お囁嚅す。江陵笑いて曰く、「去る者は、解事の人なり」と。衆出でて云何を問う。曰く、「相君、まさに一法度以て天下を斉えんと欲す、肯て明言して田の丈るべからざる有りとせんや。伸縮は当に吾輩に在るべし」と。衆、方に豁然たり。
現代語訳
隋の煬帝が広陵に行幸した。運河を開いたが、舟が寧陵の境にさしかかると、いつも水が浅くて進めなかった。そこで虞世基に尋ねた。答えて言った。「鉄の脚をつけた木の鵝を作らせてください。長さは一丈二尺、上流から流し、木鵝が止まったら、そこが浅い場所でしょう。」帝はその言葉に従って試験させ、雍丘から灌口までの間で、百二十九か所の浅瀬を見つけた。周之屏が南粤にいたとき、江陵(張居正)が土地の測量を行おうとしたが、担当官は瑤族や僮族の田は問えないと考えていた。都に入って謁見する際、布政使・按察使・知府・知県が連名で朝廷に申し立てた。江陵は声を荒げて言った。「ただ測量せよ。」周はその意図を悟って、礼をして退出した。他の人々はなお口ごもっていた。江陵は笑って言った。「去った者は、物事を弁える人だ。」皆が出て周に何と言ったのか尋ねた。周は言った。「宰相は一つの法度で天下を整えようとしているのです。測れない田があると明言するはずがありません。融通は私たちの裁量次第です。」みな初めて納得した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『韓非子』說林上二十二夫の田子は將に大事有らんとす。而るに我之に微を知るを示せば、我必ず危うからん。...人の言わざる所を知るは、其の罪大なり。
-
『韓非子』主道第五君は其の欲する所を見す無かれ。君、其の欲する所を見せば、臣将に自ら雕琢せんす。
-
説苑・善說孝武皇帝の時、汾陰にて寶鼎を得て之を甘泉宮に獻ず。群臣賀し、壽を上りて曰く、「陛下周鼎を得たり。」侍中虞丘壽王獨り曰く、「周鼎に非ず。」上之を聞き、召して問いて曰く、「朕周鼎を得たりとして、群臣皆以て周鼎と爲すに、壽王獨り以て非と爲すは何ぞや。壽王說有らば則ち生き、說無くんば則ち死せよ。」對えて曰く、「臣壽王安んぞ敢えて說無からんや。臣聞く、夫れ周の德は始め后稷に產まれ、公劉に長じ、大王に大いに、文武に成り、周公に顯る。德澤上に洞り、天下泉を漏らして通ぜざる所無し。上天報應し、鼎は周の爲に出づ。故に周鼎と名づく。今漢は高祖より周を繼ぎ、亦た德を昭かにし行いを顯し、恩を布き惠を施し、六合和同す。陛下の身に至りて愈々盛んに、天瑞並び至り、徵祥畢く見る。昔始皇帝親ら鼎を彭城に出だすも得ること能わず。天德有るを昭らかにし、寶鼎自ら至る。此れ天の漢に予うる所以にして、乃ち漢鼎なり、周鼎に非ざるなり。」上曰く、「善し。」群臣皆稱えて曰く、「萬歲。」是の日虞丘壽王に黃金十斤を賜う。
-
史記 孝武本紀亳の人薄誘忌泰一を祠るの方を奏して、曰く、「天神の貴き者は泰一、泰一の佐を五帝と曰ふ。古者天子春秋を以て泰一を東南の郊に祭り、太牢の具を用ゐること、七日、壇を為りて八通の鬼道を開く。」と。是に於て天子太祝をして其の祠を長安の東南の郊に立てしめ、常に祠を奉ずること忌の方の如くす。其の後人上書する有り、言ふ「古者天子三年に一たび太牢の具を用ゐて神三一を祠る、天一・地一・泰一なり」と。天子之を許し、太祝をして領して之を忌の泰一の壇上に祠らしむること、其の方の如くす。後人復た上書する有り、言ふ「古者天子常に春秋を以て解祠し、黄帝を祠るに一梟破鏡を用ゐ、冥羊には羊を用ゐ、馬行を祠るに一青牡馬を用ゐ、泰一・皋山山君・地長には牛を用ゐ、武夷君には乾魚を用ゐ、陰陽使者には一牛を以てす」と。祠官をして之を領せしむること其の方の如くし、而して忌の泰一の壇の旁に祠る。其の後、天子の苑に白鹿有り、其の皮を以て幣と為し、以て瑞応を発し、白金を造る。雍に郊し、一角の獣を獲たり、麃(はう)の若く然り。有司曰く、「陛下粛祗して郊祀す、上帝報享し、一角の獣を錫ふ、蓋し麟ならんと云ふ。」と。是に於て以て五畤に薦め、畤ごとに一牛を加へて以て燎く。諸侯に白金を賜ひ、以て符応の天地に合ふを風す。是に於て済北王以為へらく天子且に封禅せんとすと、乃ち上書して泰山及び其の旁邑を献ず。天子之を受け、更めて他県を以て之を償ふ。常山王罪有り、遷さる、天子其の弟を真定に封じ、以て先王の祀を続がしめ、而して常山を以て郡と為す。然る後五嶽皆天子の郡に在り。
-
『秘本玉くしげ』下 権門の威又訴訟にかぎらず、万の事に権門がかりのすぢは、取さばく役人の甚迷惑なるものにて、これ大なる国政の妨となる事あり。されば何事によらず、権門の威を以て押す事は、又下々まで主人に権威をふるひて無理非道のふるまひをすまじき旨、常にきびしく制せらるべく、又諸役人いささかも権門を憚りて不正の判断などをなすまじき旨をも命ぜらるべき也。此事は古より異国にも本朝にもつねにあるならひにて、誰もなく合点はしたることなれども、とかく止がたきもの也。
-
史記 秦始皇本紀禹龍門を鑿ち、大夏に通じ、河を決して水を亭め、之を海に放ち、身自ら築臿を持し、脛に毛毋し。臣虜の労も此より烈しからず』と。凡そ天下を有つことを貴ぶ所以の者は、意を肆にし欲を極むることを得、主は明法を重んじ、下は敢へて非を為さず、以て海内を制御すればなり。夫れ虞・夏の主は、貴きこと天子為るも、親ら窮苦の実に処りて、以て百姓に徇ふ。尚ほ何ぞ法に於てせん。朕は万乗を尊ぶも、其の実毋し。吾千乗の駕、万乗の属を造り、吾が号名を充たさんと欲す。且つ先帝は諸侯より起こり、天下を兼ね、天下已に定まり、外は四夷を攘ひて以て辺竟を安んじ、宮室を作りて以て意を得たるを章らかにす。而して君は先帝の功業の緒有るを観る。今朕位に即きて二年の間、群盗并び起こるも、君禁ずる能はず、又先帝の為す所を罷めんと欲す。是れ上は以て先帝に報ゆる毋く、次は朕の為に忠力を尽くさず。何を以て位に在らんや」と。去疾・斯・劫を吏に下し、他罪を案責す。去疾・劫曰く、「将相は辱められず」と。自殺す。斯卒に囚はれ、五刑に就く。三年、章邯等其の卒を将ゐて鉅鹿を囲む。楚の上将軍項羽楚の卒を将ゐて往きて鉅鹿を救ふ。冬、趙高丞相と為り、竟に李斯を案じて之を殺す。夏、章邯等戦ひて数却く。二世人をして邯を譲めしむ。邯恐れ、長史欣をして事を請はしむ。趙高見ず、又信ぜず。欣恐れ、亡げ去る。高人をして捕追せしむるも及ばず。欣邯に見えて曰く、「趙高中に事を用ゐる。将軍功有るも亦誅せられ、功無きも亦誅せられん」と。項羽急に秦の軍を撃ち、王離を虜にす。邯等遂に兵を以て諸侯に降る。八月己亥、趙高乱を為さんと欲するも、群臣の聴かざらんことを恐れ、乃ち先づ験を設け、鹿を持ちて二世に献じ、曰く、「馬なり」と。二世笑ひて曰く、「丞相誤れるか、鹿を謂ひて馬と為す」と。左右に問ふ。左右或いは默し、或いは馬と言ひて以て趙高に阿順す。或いは鹿と言ふ。高因りて陰かに諸の鹿と言ふ者を中つるに法を以てす。後群臣皆高を畏る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る