智囊 / 應卒・盛度
盛文肅在翰苑日,昭陵嘗召入,面諭:「近日亢旱,禱而不應,朕當痛自咎責,詔求民間疾苦。卿只就此草詔,庶幾可以商量,不欲進本往復也。」文肅奏曰:「臣體肥,不能伏地作字,乞賜一平面子。」上從之,逮傳旨下有司而平面子至,則詔已成矣。上嘉其敏速,更不易一字。或曰:「文肅屬文思遲,乞平面子,蓋亦善用其短也。」
新字:盛文粛在翰苑日,昭陵嘗召入,面諭:「近日亢旱,祷而不応,朕当痛自咎責,詔求民間疾苦。卿只就此草詔,庶幾可以商量,不欲進本往復也。」文粛奏曰:「臣体肥,不能伏地作字,乞賜一平面子。」上従之,逮伝旨下有司而平面子至,則詔已成矣。上嘉其敏速,更不易一字。或曰:「文粛属文思遅,乞平面子,蓋亦善用其短也。」
書き下し
盛文粛、翰苑に在りし日、昭陵嘗て召して入れ、面諭して曰く、「近日亢旱し、禱りて応ぜず。朕、当に痛く自ら咎責し、詔して民間の疾苦を求むべし。卿、ただここに就きて詔を草せよ。庶幾わくは以て商量すべし、本を進めて往復するを欲せず」と。文粛奏して曰く、「臣、体肥えて、伏地して字を作すこと能わず。乞う、一平面子を賜わらんことを」と。上これに従う。伝旨下に逮び有司に下して平面子至るや、則ち詔すでに成れり。上、その敏速を嘉し、更に一字をも易えず。或ひと曰く、「文粛は属文の思い遅し。平面子を乞うは、けだしまたよくその短を用うるなり」と。
現代語訳
盛度(文粛)が翰林院にいたころ、仁宗が呼び入れ、直接こう言った。「近ごろ日照りが続き、祈っても効き目がない。朕は深く自らを責め、詔を出して民の苦しみを求めようと思う。卿はここで詔の草案を作ってくれ。相談しながら進めたいので、草稿を提出して何度もやり取りするのは望まない。」盛度は申し上げた。「私は体が太っていて、床にひれ伏して字を書くことができません。どうか平らな台を一つお与えください。」帝はこれを許した。命令が係の役所に下り、平らな台が届いたときには、詔はもう出来上がっていた。帝はその素早さを称え、一字も直さなかった。ある人は言った。「盛文粛は文章を作る思考が遅かった。平らな台を求めたのは、おそらく自分の短所をうまく利用したのだ。」
解説
この章句が説くこと
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『智囊』迎刃・沈啔世宗皇帝が楚に幸するに当たり、従う所の水道には、南京で楼船を具えて従わせることになっていた。しかし上が或いは道を改めれば、県官の金銭を耗す。具えても上が猝かに至れば、罪を獲る。尚書の周用は疑って工部主事の沈啔に問うた。啔は曰く、「商を召して材を龍江関に需め、急駅で上の従う所の道を偵い、日を以て計れば、舟は立ちどころに辦じます。舟を用いるなら直を舟に帰し、舟を用いなければ材を商に帰す、難しくありません」と。上は果たして陸に従い、水衡の銭を費やさずに済んだ。中貴人が皇陵の修理を請い、錦衣の朱指揮という者が往きて視た。啔は間に乗じて朱に謂った、「高皇帝の制では、皇陵は寸土も動かすことを得ず、違えば死とあります。今修めるのに土を動かさずにはおれず、死は畏るべきです」と。朱は色を懾え、中貴人に言って止めた。
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