智囊 / 應卒・陶魯
陶魯,字自立,鬱林人,年二十,以父成無事,錄補廣東新會縣丞。都御史韓公雍下令索犒軍牛百頭,限三日具。公令出如山,群僚皆不敢應,魯逾列任之,三司及同官交責其妄,魯曰:「不以相累。」乃榜城門云:「一牛酬五十金。」有人以一牛至,即與五十金。明日牛爭集,魯選取百頭肥健者,平價與之,曰:「此韓公命也。」如期而獻,公大稱賞,檄魯隸麾下,任以兵政。其破藤峽,多賴其力,累遷至方伯。〔評〕本商鞅徙木立信之術,兼趙清獻增價平糴之智。
新字:陶魯,字自立,鬱林人,年二十,以父成無事,録補広東新会県丞。都御史韓公雍下令索犒軍牛百頭,限三日具。公令出如山,群僚皆不敢応,魯逾列任之,三司及同官交責其妄,魯曰:「不以相累。」乃榜城門云:「一牛酬五十金。」有人以一牛至,即与五十金。明日牛争集,魯選取百頭肥健者,平価与之,曰:「此韓公命也。」如期而献,公大称賞,檄魯隸麾下,任以兵政。其破藤峡,多頼其力,累遷至方伯。〔評〕本商鞅徙木立信之術,兼趙清献增価平糴之智。
書き下し
陶魯、字は自立、鬱林の人。年二十、父の成が事無きを以て、録して広東新会県の丞に補せらる。都御史韓公雍、令を下して犒軍の牛百頭を索め、限るに三日を以て具えしむ。公の令出ずること山の如く、群僚みな敢えて応ぜず。魯、列を逾えてこれに任じ、三司及び同官交々その妄を責む。魯曰く、「累を相及ぼさず」と。乃ち城門に榜して云う、「一牛に酬ゆるに五十金」と。人の一牛を以て至る有れば、即ち五十金を与う。明日、牛争いて集まり、魯、肥健なる者百頭を選び取り、平価にてこれに与えて曰く、「これ韓公の命なり」と。期の如くして献じ、公大いに称賞し、檄して魯を麾下に隷せしめ、任ずるに兵政を以てす。その藤峡を破るや、多くその力に頼る。累遷して方伯に至る。〔評〕もと商鞅の木を徙して信を立つるの術にして、兼ねて趙清献の価を増して糴を平らぐるの智なり。
現代語訳
陶魯は字を自立といい、鬱林の人である。二十歳のとき、父の陶成が無事であったことから、記録されて広東の新会県の丞に補された。都御史の韓雍が、軍を労うための牛百頭を、三日以内に用意せよと命じた。韓公の命令は山のように重く、同僚の役人たちはだれも引き受けようとしなかった。陶魯は列を越えて進み出て引き受け、三司の長官や同僚たちは口々にその軽率さを責めた。陶魯は言った。「皆さんに迷惑はかけません。」そこで城門に張り紙を出した。「牛一頭につき五十金を支払う。」牛を一頭連れてくる者があれば、すぐに五十金を与えた。翌日には牛が争って集まり、陶魯は肥えて丈夫なものを百頭選び、適正価格で買い取って「これは韓公の命令による」と言った。期限どおりに献上すると、韓公は大いに称賛し、檄を発して陶魯を自分の配下に入れ、軍政を任せた。藤峡を破ったときも、その力に頼るところが大きかった。何度も昇進して方伯にまで至った。〔評〕もとは商鞅が木を移した者に褒賞を与えて信用を立てた術であり、あわせて趙清献が価格を引き上げて米の買い入れを平らげた知恵でもある。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』制勝・陶魯天順の初め、韓襄毅公、廣東の峒賊を征す。其の險阻にして下し難きを憂え、食に方りて躊躇す。適々新會の丞陶魯、膳を直して側に在り。公、之を顧みて問いて曰く、「丞、我が何の意なるかを揣るか」と。魯曰く、「賊を謀るに非ざるを得んや」と。雍曰く、「然り。丞、能く我が為に賊を撃つや否や」と。曰く、「直に能くするのみに匪ず、且つ易きのみ」と。公怒りて曰く、「吾が部下の文武は百千人、熟視するも吾が寄に當たる者無し。若し妄言せば、笞に合う」と。魯拜せず、抗言して曰く、「夫れ賊の攻め難きは、賊の難きに非ず、我が其の賊を攻むる者を難しとするなり。公は特に未だ我が能を悉さざるのみ」と。公之を異とし、容を改めて問う、「若、將いる所は幾何にして辦ぜんや」と。曰く、「三百人にて足れり」と。公曰く、「何ぞ少なきや」と。曰く、「兵は精に在りて多きに在らず」と。公曰く、「唯だ汝の擇ぶままにせよ」と。魯乃ち標式して曰く、「孰か能く力もて百鈞を舉げ、矢もて二百步を射る者ぞ」と。軍士は凡そ十五萬、其の式に比する者は才かに二百五十人。曰く、「未だし」と。復た令を下して募ること數日、始めて足る。魯乃ち別將と為り、日々陣法を操練し、勞うに牛酒を以てし、甘苦を共にす。士、死を樂しみ、率ね以て先登し、大いに賊を破り、斬首すること無算。得る所の賊穴中の金帛は、悉く三百人に分給し、己は與ること無し。賊、陶家軍の至るを聞けば、遁げずんば則ち降り、敢えて抗する無し。語に之れ有り、「一夫決すれば、萬夫避く」と。況んや三百人をや。
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