智囊 / 靈變・元伯顏・徐敬業
弘正間,胡世寧按察江西時,江西盜起。方議剿,軍官來謁,適世寧他出,乃見其幼子繼。繼曰:「兵素不習,豈能見我父哉?」軍官跪請教,繼乃指示進退離合之勢,甚詳。凡三日,而世寧歸,閱兵,大異之,顧軍官不辨此,誰教若者。以實對。繼初不善讀書,父以愚棄之,至是歎曰:「吾有子自不知乎?」自此每擊賊,必從繼方略。世寧十不失三,繼十不失一也。世寧上疏,乞以禮法裁制寧王。繼跪曰:「疏入,必重禍。」不聽,果下獄。繼因念父,病死。世寧母獨不哭,曰:「此子在,當作賊,胡氏滅矣。」此母亦大有見識。
新字:弘正間,胡世寧按察江西時,江西盗起。方議剿,軍官来謁,適世寧他出,乃見其幼子継。継曰:「兵素不習,豈能見我父哉?」軍官跪請教,継乃指示進退離合之勢,甚詳。凡三日,而世寧帰,閲兵,大異之,顧軍官不弁此,誰教若者。以実対。継初不善読書,父以愚棄之,至是嘆曰:「吾有子自不知乎?」自此毎撃賊,必従継方略。世寧十不失三,継十不失一也。世寧上疏,乞以礼法裁制寧王。継跪曰:「疏入,必重禍。」不聴,果下獄。継因念父,病死。世寧母独不哭,曰:「此子在,当作賊,胡氏滅矣。」此母亦大有見識。
書き下し
弘正の間、胡世寧が江西を按察せし時、江西に盗起こる。方に剿を議するに、軍官来たりて謁す。適々世寧は他に出づ。乃ちその幼子の継に見ゆ。継曰く、「兵は素より習わず、豈に能く我が父に見えんや」と。軍官は跪きて教えを請う。継は乃ち進退離合の勢いを指示し、甚だ詳らかなり。凡そ三日にして、世寧は帰り、兵を閲して大いにこれを異とし、軍官を顧みて、これを辨ずる者は誰ぞ、若に教えし者はと問う。実を以て対う。継は初め書を読むに善からず、父は愚を以てこれを棄てしが、是に至りて歎じて曰く、「吾に子有るに自ら知らざるか」と。此れより賊を撃つ毎に、必ず継の方略に従う。世寧は十に三を失わず、継は十に一を失わず。世寧は上疏して、礼法を以て寧王を裁制せんことを乞う。継は跪きて曰く、「疏入らば、必ず重き禍あらん」と。聴かず、果たして獄に下る。継は因りて父を念い、病みて死す。世寧の母は独り哭かず、曰く、「この子在らば、当に賊と作るべし、胡氏は滅びん」と。この母も亦た大いに見識有り。
現代語訳
弘治・正徳のころ、胡世寧が江西の按察使を務めていたとき、江西に盗賊が起こった。討伐の方策を議論していたところ、軍官が来て面会を求めた。ちょうど世寧は外出中だったので、幼い息子の継に会った。継は「兵のことを習ったこともないのに、どうして父に会えましょうか」と言った。軍官がひざまずいて教えを請うと、継は軍の進退や集散の態勢を指示し、その内容はとても詳しかった。三日ほどして世寧が帰り、軍の様子を点検して大いに不思議がり、軍官に向かって、「この兵法をわきまえているのは誰か。誰がお前たちに教えたのか」と尋ねた。軍官が事実を答えた。継は幼いころ書物を読むのが苦手で、父は愚かな子だと見限っていたが、このとき嘆いて「自分の子のことを自分で分かっていなかったのか」と言った。それ以後、賊を撃つたびに必ず継の策略に従った。世寧の策は十のうち三を失い、継の策は十のうち一も失わなかった。のち世寧は上奏し、礼法をもって寧王を抑えるよう願い出ようとした。継はひざまずいて「上奏すれば必ず重い禍がまいります」と止めたが、聞き入れず、果たして獄に下された。継は父を案じて病み、死んだ。世寧の母だけは泣かず、「この子が生きていたら、賊になっていただろう。そうなれば胡氏は滅びていた」と言った。この母もたいへん見識のある人である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
論語・子張篇陳子禽、子貢に謂いて曰く、「子は恭を為すなり。仲尼豈に子より賢らんや。」子貢曰く、「君子は一言以て知と為し、一言以て不知と為す。言は慎まざる可からざるなり。夫子の及ぶ可からざるや、猶お天の階して升る可からざるがごときなり。夫子の邦家を得たらば、所謂『之を立つれば斯に立ち、之を道けば斯に行き、之を綏んずれば斯に来たり、之を動かせば斯に和す。其の生くるや栄え、其の死するや哀しむ』。之を如何ぞ其れ及ぶ可けんや。」
-
尉繚子・兵教上民をして国門の限を背にし、死生の分を決せしめ、之に死して疑はざるを教ふる者は、以有るなり。守る者をして必ず固く、戦ふ者をして必ず闘ひ、奸謀作らず、姦民語らず、令行はれて変無く、兵行はれて猜無く、軽き者は霆の若く、敵に奮ふこと驚くが若くせしむ。功を挙げ徳を別つこと、明らかなること白黒の如く、
-
『甲陽軍鑑』品第四十爰におひて高坂弾正いはく、人をほむるも、そしるも我位ほどさたする時は被官といへども、よき者へは悪大将心ざし及ばさる故、めもさながらとゞかぬなり、惣別よき大将は三万·四万の人数をつれても五千の敵に気遣給ふ事、主の小人数にて大軍を引請、どこぞのつがひに切てとらんと思ふたる大身のむかしより、いかほど大きく成給ひて後までも気遣なさるゝ事、我意地にあてがひてかくの分なり、
-
『大和俗訓』巻之五・言語一人をほめ毀ること、つつしんで過不及なかるべし。人の小悪を大悪に言ひなし、小過を大過に言ひなし、虚なることを実に言ひなすは、讒言なり。又左程なきことを、甚しく人をほめ過すも、正直の道にあらず。へつらひて其人に私するなり。誉めそしること、かるがるしくすべからず。たとへば権量を以て、物の軽重をはかるが如くなるべし。一毫もかろくし重くして、過不及あるべからず。誉むべからざる人をほめ、毀るべからざる人をそしり、或はほめ過し、そしり過すは、ともに不智なり。論語に子貢曰、君子は一言以て智とし、一言以て不智とす。言慎まずんばあるべからずといへり。よき人は、許可をつつしむとて、人をみだりにゆるしほめず。されども、小善をもすてず、一芸をも用ふるは、君子のする所なり。
-
『幽夢影』巻下・君子の鄙しむ所と爲る毋れ寧ろ小人の罵る所と爲るも、君子の鄙しむ所と爲る毋れ。寧ろ盲主司の擯棄する所と爲るも、諸名宿の知らざる所と爲る毋れ。
-
史記 趙世家四卿恐れ、遂に共に出公を攻む。出公斉に奔り、道に死す。知伯乃ち昭公の曾孫驕を立つ、是を晋の懿公と為す。知伯益々驕る。地を韓・魏に請ふ。韓・魏之に与ふ。地を趙に請ふ。趙与へず。其の鄭を囲みしときの辱めを以てなり。知伯怒り、遂に韓・魏を率ゐて趙を攻む。趙襄子懼れ、乃ち奔りて晋陽を保つ。原過従ふ。後れて、王沢に至り、三人を見る。帯より以上は見るべく、帯より以下は見るべからず。原過に竹二節を与ふ。通ずる莫し。曰く、「我が為に是を以て趙毋卹に遺れ」と。原過既に至り、以て襄子に告ぐ。襄子斉すること三日、親ら自ら竹を剖く。朱書有りて曰く、「趙毋卹、余は霍泰山山陽侯の天使なり。三月丙戌、余将に女をして反りて知氏を滅ぼさしめんとす。女も亦我が百邑を立てよ。余将に女に林胡の地を賜はんとす。後世に至りて、且に伉王有らんとす。赤黒く、龍面にして鳥噣、鬢麋髭髯、大膺大胸、修下にして馮、左袵界乗、奄ひて河宗を有ち、休溷の諸貉に至り、南のかた晋の別を伐ち、北のかた黒姑を滅ぼさん」と。襄子再拝し、三神の令を受く。三国晋陽を攻むること歳余、汾水を引きて其の城に灌ぐ。城の浸らざる者三版。城中釜を懸けて炊ぎ、子を易へて食らふ。群臣皆外心有り、礼益々慢る。唯だ高共のみ敢へて礼を失はず。襄子懼れ、乃ち夜に相の張孟同をして私かに韓・魏に於てせしむ。韓・魏与に合謀し、三月丙戌を以て、三国反りて知氏を滅ぼし、共に其の地を分つ。是に於て襄子賞を行ふ。高共を上と為す。張孟同曰く、「晋陽の難に、唯だ共のみ功無し」と。襄子曰く、「晋陽の急なるに方りて、群臣皆懈る。惟だ共のみ敢へて人臣の礼を失はず。是を以て之を先にす」と。是に於て趙は北に代を有ち、南に知氏を并せ、韓・魏より彊し。遂に三神を百邑に祠り、原過をして霍泰山の祠祀を主らしむ。其の後空同氏を娶り、五子を生む。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る