智囊 / 權奇・張循王老兵
張循王嘗春日遊後圃,見一老卒臥日中,王蹴之曰:「何慵眠如是?」卒起聲喏,對曰:「無事可做,只索眠耳。」王曰:「汝會做甚事?」對曰:「諸事薄曉,如回易之類亦粗能之。」王曰:「汝能回易,吾以萬緡付汝,何如?」對曰:「不足為也,」王曰:「付汝五萬。」對曰:「亦不足為也。」王曰:「汝需幾何?」對曰:「不能百萬,亦五十萬乃可耳。」
新字:張循王嘗春日遊後圃,見一老卒臥日中,王蹴之曰:「何慵眠如是?」卒起声喏,対曰:「無事可做,只索眠耳。」王曰:「汝会做甚事?」対曰:「諸事薄暁,如回易之類亦粗能之。」王曰:「汝能回易,吾以万緡付汝,何如?」対曰:「不足為也,」王曰:「付汝五万。」対曰:「亦不足為也。」王曰:「汝需幾何?」対曰:「不能百万,亦五十万乃可耳。」
書き下し
張循王、嘗て春日に後圃に遊び、一老卒の日中に臥するを見る。王これを蹴りて曰く、「何ぞ慵眠すること是くの如き」と。卒起ちて声喏し、対えて曰く、「事の做すべき無し。只だ眠るを索むるのみ」と。王曰く、「汝は甚事を做すを会するか」と。対えて曰く、「諸事は薄く暁り、回易の類も亦た粗ぼ能くす」と。王曰く、「汝能く回易せば、吾万緡を以て汝に付す。何如」と。対えて曰く、「為すに足らざるなり」と。王曰く、「汝に五万を付さん」と。対えて曰く、「亦た為すに足らざるなり」と。王曰く、「汝は幾何を需むるか」と。対えて曰く、「百万能わずんば、亦た五十万にして乃ち可なるのみ」と。
現代語訳
張循王(張俊)は、ある春の日、裏庭を散歩していて、一人の老兵が日なたで寝ているのを見かけた。王は老兵を蹴って言った。「なぜそんなに怠けて寝ているのか」。老兵は起き上がって返事をし、答えた。「することがありません。ただ寝るだけです」。王は言った。「おまえは何ができるのか」。老兵は答えた。「大概のことは少しはわかり、回易(交易)の類もだいたいできます」。王は言った。「おまえが回易できるなら、私は一万緡を預けよう。どうだ」。老兵は答えた。「やるには足りません」。王は言った。「五万を預けよう」。老兵は答えた。「それでもやるには足りません」。王は言った。「いくら必要なのか」。老兵は答えた。「百万でなくとも、五十万ならできます」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 張釈之馮唐列伝吾独り廉頗・李牧を得て時に吾が将と為さざるか。吾豈に匈奴を憂へんや」と。唐曰く、「主臣。陛下廉頗・李牧を得と雖も、用ふること能はざるなり」と。上怒り、起ちて禁中に入る。良久しくして、唐を召して譲(せ)めて曰く、「公柰何ぞ衆にて我を辱むる。独り間処無からんや」と。唐謝して曰く、「鄙人忌諱を知らず」と。是の時に当たり、匈奴新たに大いに朝那に入り、北地の都尉卬を殺す。上胡寇を以て意と為し、乃ち卒に復た唐に問ひて曰く、「公何を以て吾が廉頗・李牧を用ふること能はざるを知るや」と。唐対へて曰く、「臣聞く、上古の王者の将を遣はすや、跪きて轂を推し、曰く閫(こん)以内は寡人之を制し、閫以外は将軍之を制すと。軍功爵賞は皆外に決し、帰りて之を奏す。此れ虚言に非ざるなり。臣の大父言ふ、李牧、趙の将と為りて辺に居り、軍市の租は皆自ら用ひて士を饗し、賞賜は外に決し、中より擾されずと。委任して成功を責む。故に李牧乃ち其の智能を尽くすを得たり。選車千三百乗、彀騎万三千、百金の士十万を遣はし、是を以て北のかた単于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西のかた彊秦を抑へ、南のかた韓・魏を支ふ。是の時に当たりて、趙幾(ほと)んど霸たらんとす。其の後会(たまたま)趙王遷立つ。其の母は倡なり。王遷立ち、乃ち郭開の讒を用ひ、卒に李牧を誅し、顔聚をして之に代はらしむ。是を以て兵破れ士北(に)げ、秦の禽滅する所と為る。今臣竊かに聞く、魏尚雲中の守と為り、其の軍市の租は尽く以て士卒を饗し、[出]私養の銭もて、五日に一たび牛を椎(う)ち、賓客・軍吏・舎人を饗す。是を以て匈奴遠く避け、雲中の塞に近づかず。虜曾て一たび入る。尚、車騎を率ゐて之を撃ち、殺す所其れ衆し。夫れ士卒は尽く家人の子にして、田中より起ちて軍に従ふ。安くんぞ尺籍・伍符を知らん。終日力戦し、首を斬り虜を捕へ、功を莫府に上るに、一言相応ぜざれば、文吏法を以て之を縄す。其の賞行はれずして吏の法を奉ずるは必ず用ひらる。
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史記 呉王濞列伝呉王濞は、高帝の兄劉仲の子なり。高帝已に天下を定むること七年、劉仲を立てて代王と為す。而して匈奴代を攻む。劉仲堅守する能はず、国を棄てて亡げ、間行して雒陽に走り、自ら天子に帰す。天子骨肉の為の故に、法を致すに忍びず、廃して以て郃陽侯と為す。高帝十一年秋、淮南王英布反し、東のかた荊の地を并せ、其の国の兵を劫かし、西のかた淮を度り、楚を撃つ。高帝自ら将として往きて之を誅す。劉仲の子沛侯濞、年二十、気力有り。騎将を以て従ひて布の軍を蘄の西、会甀に破り、布走る。荊王劉賈布の殺す所と為り、後無し。上呉・会稽の軽悍にして、壮王の以て之を填むる無く、諸子少きを患ひ、乃ち濞を沛に立てて呉王と為し、三郡五十三城に王たらしむ。已に拝して印を受く。高帝濞を召して之を相し、謂ひて曰く、「若の状反相有り」と。心に独り悔ゆるも、業已に拝せり。因りて其の背を拊ちて、告げて曰く、「漢の後五十年、東南に乱るる者有らば、豈に若ならんや。然れども天下の同姓は一家為り。慎みて反する無かれ」と。濞頓首して曰く、「敢へてせず」と。会々孝恵・高后の時、天下初めて定まり、郡国の諸侯各々務めて自ら其の民を拊循す。呉に豫章郡の銅山有り。濞則ち天下の亡命者を招致して盗かに銭を鋳、海水を煮て塩と為す。故を以て賦無く、国用富饒なり。
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『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
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老子・第29章将に天下を取りて之を為さんと欲するも、吾れ其の已むを得ざるを見る。天下は神器なり、為すべからざるなり、執るべからざるなり。為す者は之を敗り、執る者は之を失う。故に物は或いは行き或いは随い、或いは歔き或いは吹き、或いは強く或いは羸く、或いは挫け或いは隳る。是を以て聖人は甚を去り、奢を去り、泰を去る。
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『春秋左氏伝』桓公十七年 高渠弥、昭公を弑す十七年春、黃に盟ふ。齊・紀を平らげ、且つ衛の故を謀るなり。邾の儀父と趡に盟ふ。蔑の盟を尋むるなり。夏、齊の師と奚に戰ふ。疆の事なり。是に於て齊人魯の疆を侵す。疆吏來り告ぐ。公曰く、「疆埸の事は、慎みて其の一を守りて、其の虞らざるに備ふ。姑く備ふる所を盡くせ。事至らば戰はん。又何ぞ謁げん」と。蔡の桓侯卒す。蔡人蔡季を陳より召す。秋、蔡季陳より蔡に歸る。蔡人之を嘉すればなり。邾を伐つは、宋の志なり。冬十月朔、日之を食する有り。日を書せざるは、官之を失へばなり。天子に日官有り、諸侯に日禦有り。日官は卿に居りて以て日を底(さだ)む、禮なり。日禦は日を失はず、以て百官に朝に授く。初め、鄭伯將に高渠彌を以て卿と為さんとす。昭公之を惡み、固く諫む。聽かず。昭公立つ。其の己を殺さんことを懼る。辛卯、昭公を弑して、公子亹を立つ。君子昭公を惡む所を知ると謂ふ。公子達曰く、「高伯其れ戮せられんか。惡を複すること已甚し」と。
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説苑・奉使趙王使者を楚に遣わす。方に瑟を鼓して之を遣わし、之を誡めて曰く、「必ず吾が言の如くせよ。」使者曰く、「王の瑟を鼓するや、未だ嘗て此くの如く悲しからざりき。」王曰く、「宮商固より方に調えり。」使者曰く、「調うれば則ち何ぞ其の柱に書さざるか。」王曰く、「天に燥濕有り、絃に緩急有り、宮商の移徙知るべからず、是を以て書さず。」使者曰く、「明君の人を使うや、之に任ずるに事を以てし、制するに辭を以てせず。吉に遇えば則ち之を賀し、凶には則ち之を弔う。今楚と趙と相去ること千有餘里、吉凶憂患、豫め知るべからざること、猶お柱の書すべからざるがごとし。詩に云う、『莘莘たる征夫、每に懷えども及ぶこと靡し。』」
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