智囊 / 權奇・王導・程嬰
魯武公與其二子括與戲朝周,宣王愛戲,立為魯世子。武公薨,戲立,是為懿公。時公子稱最少,其保母臧寡婦與其子俱入宮養公子稱。括死,而其子伯御與魯人作亂,攻殺懿公而自立,求公子稱,將殺之。臧聞之,乃衣其子以稱之衣,臥於稱處,伯御殺之。臧遂抱稱以出,遂與稱舅同匿之。十一年,魯大夫知稱在,於是請於周而殺伯御,立稱,是為孝公。時呼臧為「孝義保」。事在嬰、杵前,嬰、杵蓋襲其智也。然嬰之首孤,杵之責嬰,假裝酷似,不唯仇人不疑,而舉國皆不知,其術更神矣,其心更苦矣!
新字:魯武公与其二子括与戯朝周,宣王愛戯,立為魯世子。武公薨,戯立,是為懿公。時公子称最少,其保母臧寡婦与其子倶入宮養公子称。括死,而其子伯御与魯人作乱,攻殺懿公而自立,求公子称,将殺之。臧聞之,乃衣其子以称之衣,臥於称処,伯御殺之。臧遂抱称以出,遂与称舅同匿之。十一年,魯大夫知称在,於是請於周而殺伯御,立称,是為孝公。時呼臧為「孝義保」。事在嬰、杵前,嬰、杵蓋襲其智也。然嬰之首孤,杵之責嬰,仮装酷似,不唯仇人不疑,而舉国皆不知,其術更神矣,其心更苦矣!
書き下し
魯の武公、その二子括と戯とを与に周に朝す。宣王戯を愛し、立てて魯の世子と為す。武公薨じ、戯立つ。これを懿公と為す。時に公子称、最も少く、その保母の臧の寡婦、その子と俱に宮に入りて公子称を養う。括死して、その子伯御、魯人と乱を作し、懿公を攻め殺して自ら立ち、公子称を求めて、将にこれを殺さんとす。臧これを聞き、乃ちその子に称の衣を衣せ、称の処に臥せしむ。伯御これを殺す。臧遂に称を抱きて出で、遂に称の舅と同にこれを匿す。十一年、魯の大夫、称の在るを知り、是に於て周に請いて伯御を殺し、称を立つ。これを孝公と為す。時に臧を呼びて「孝義の保」と為す。事は嬰、杵の前に在り、嬰、杵は蓋しその智を襲うならん。然れども嬰の孤を首し、杵の嬰を責むること、仮装酷似し、唯だ仇人疑わざるのみならず、而して挙国皆知らず。その術更に神にして、その心更に苦しきかな。
現代語訳
魯の武公は二人の子、括と戯を連れて周に朝見した。周の宣王は戯を気に入り、魯の世子に立てた。武公が亡くなって戯が立った。これが懿公である。そのころ公子称がもっとも幼く、その乳母の臧の寡婦が自分の子とともに宮中に入って称を養っていた。括が亡くなると、その子の伯御が魯の人々と乱を起こし、懿公を攻め殺して自ら君主となり、公子称を捜して殺そうとした。臧はこれを聞いて、自分の子に称の着物を着せ、称の寝床に寝かせた。伯御はその子を殺した。臧はそのまま称を抱いて脱出し、称の母方の叔父とともにかくまった。十一年たち、魯の大夫は称が生きているのを知り、周に願い出て伯御を殺し、称を立てた。これが孝公である。当時、人々は臧を「孝義の保母」と呼んだ。この事件は程嬰と杵臼より前のことで、程嬰と杵臼はおそらくこの知恵を踏襲したのであろう。ただし程嬰が遺児の居場所を売ると見せ、杵臼が程嬰をなじった芝居は、本物そっくりで、仇敵が疑わなかったばかりか国中の誰も気づかなかった。その術はさらに神妙で、その心はさらに苦しいものだった。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十七其後仰出しには、彼落合彥助事曲淵に年こそおとりたりとも、武辺の事さのみおとる者にてなし、さるについて逍遥軒にとらせ候所に、曲淵が蔵前にて奉行どもに雑言の事赦免せしめてありとて、いつもさやう有べきと存、事下より上をはからふたる様子言語同断、口惜く思召し候、其上第一に彼彥助をあれほどの臆病者にて有べしとは御存知なし、
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『政談』奉公人年を僞る事当時十四五歳になるものゝいまた小身にて御奉公もせぬうちに死したるか、兼ねて年を偽りて十七満になりたるは其の人の伯父のあるをは差置とていとこちがいなどの二三歳なるを、他苗を搆はす年をます五六歳も偽りて養子に願へば、願ひの通り仰付けらるゝ事なり、然れは其の先祖の御奉公故に跡を立て玉ふにてはなくて、其の小身にて未た御奉公もせぬ十四五歳になるものゝ跡目を立て玉ふやうなり、是れ皆法の立やう悪しき故跡目を立てらるゝ本意を忘れて例にかゝはる故なり、大名には家相続とて年にもかゝはらさる例あれとも、旗本を支配するともから此の例を引かぬは、ひろく例をも考へす、唯我か扱ひ習ひたる仕くせしかけにて申し立つれは何の詮議も無きこと、是亦当時は何もかも願ひと云事はやる故なり、且又次男三男を他苗にても養子にやりたきと人々のぞみをかけて其支配の頭に頼む故、頼れたるか黙しかたくて斯の如く仕なすもあるへし、此等は願ひに搆はす其の支配同苗の親類はなきかと吟味して申し立つへきこと也、畢竟文盲なれは同苗にても苗他にても跡さへ立ては同しこと也と心得る故もあるへし、
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