智囊 / 謬數・何承矩
瓦橋關北與遼為鄰,素無關河之阻。何承矩守澶州,始議因陂澤之地,瀦水為塞,欲自相度,恐其謀泄,乃築愛景台,植蓼花,日會僚佐,泛舟置酒,作《蓼花吟》數篇,令座客屬和,畫以為圖,刻石傳至京師,人謂何宅使愛蓼花,不知其經始塘泊也。慶曆、熙寧中相繼開濬,於是自保州西北沉遠濼,東盡滄州泥枯海口,幾八百里,悉為瀦潦,倚為藩籬。
新字:瓦橋関北与遼為鄰,素無関河之阻。何承矩守澶州,始議因陂沢之地,瀦水為塞,欲自相度,恐其謀泄,乃築愛景台,植蓼花,日会僚佐,泛舟置酒,作《蓼花吟》数篇,令座客属和,画以為図,刻石伝至京師,人謂何宅使愛蓼花,不知其経始塘泊也。慶暦、熙寧中相継開濬,於是自保州西北沈遠濼,東尽滄州泥枯海口,幾八百里,悉為瀦潦,倚為藩籬。
書き下し
瓦橋関の北は遼と隣を為し、素より関河の阻無し。何承矩は澶州を守り、始めて陂沢の地に因り、水を瀦めて塞と為さんことを議す。自ら相度せんと欲するも、其の謀の泄れんことを恐れ、乃ち愛景台を築き、蓼花を植え、日に僚佐を会して舟を泛かべ酒を置き、《蓼花吟》数篇を作り、座客をして属和せしめ、画きて以て図と為し、石に刻して京師に伝う。人は何宅使は蓼花を愛すと謂い、其の塘泊を経始するを知らざるなり。慶暦・熙寧の中、相い継いで開濬し、是に於いて保州の西北の沈遠濼自り、東は滄州の泥枯海口に尽くるまで、幾んど八百里、悉く瀦潦と為り、倚りて藩籬と為す。
現代語訳
瓦橋関の北は遼と隣り合い、もともと関所や河による防壁がなかった。何承矩は澶州を守っていたとき、初めて、沼や池のある土地を利用して水を溜め、防壁にすることを提案した。自分で視察して測量したいと思ったが、その計画が漏れることを恐れた。そこで愛景台を築いて蓼の花を植え、毎日部下たちを集めて舟を浮かべ酒を置き、『蓼花吟』を数篇作り、座にいる客に唱和させ、絵にして図とし、石に刻んで都に伝えた。人々は何宅使は蓼の花を愛していると思い、彼が水を溜める堤や池の造営を始めているとは知らなかった。慶暦・熙寧年間に相次いで水路を開き、保州の西北の沈遠濼から、東は滄州の泥枯の海口に至るまで、およそ八百里がすべて水たまりとなり、これを頼りに防壁とした。
解説
この章句が説くこと
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