智囊 / 經務・蘇州堤
蘇州至崑山縣凡七十里,皆淺水,無陸途。民頗病涉,久欲為長堤。而澤國艱於取土。嘉祐中,人有獻計,就水中以蘧除芻藁為牆,栽兩行,相去三尺;去牆六尺,又為一牆,亦如此。漉水中淤泥,實蘧除中,候乾,則以水車沃去兩牆間之舊水,牆間六尺皆土,留其半以為堤腳,掘其半為渠,取土為堤。每三四里則為一橋,以通南北之水,不日堤成,遂為永利。
新字:蘇州至崑山県凡七十里,皆浅水,無陸途。民頗病渉,久欲為長堤。而沢国艱於取土。嘉祐中,人有献計,就水中以蘧除芻藁為牆,栽両行,相去三尺;去牆六尺,又為一牆,亦如此。漉水中淤泥,実蘧除中,候乾,則以水車沃去両牆間之旧水,牆間六尺皆土,留其半以為堤脚,掘其半為渠,取土為堤。毎三四里則為一橋,以通南北之水,不日堤成,遂為永利。
書き下し
蘇州より崑山県に至るまで凡そ七十里、皆な浅水にして陸途無し。民は頗る渉るに病み、久しく長堤を為さんと欲す。而れども沢国にして土を取るに艱む。嘉祐中、人の計を献ずる有り、水中に就きて蘧除・芻藁を以て牆を為り、両行を栽え、相い去ること三尺。牆を去ること六尺にして、又た一牆を為ること、亦た此の如し。水中の淤泥を漉い、蘧除の中に実し、乾くを候ちて、則ち水車を以て両牆の間の旧水を沃ぎ去り、牆間六尺は皆な土なり。其の半ばを留めて以て堤脚と為し、其の半ばを掘りて渠と為し、土を取りて堤と為す。三四里ごとに則ち一橋を為し、以て南北の水を通ず。日ならずして堤成り、遂に永利と為る。
現代語訳
蘇州から崑山県までは七十里余りあり、すべて浅い水で、陸路がなかった。民は渡るのに大変苦労し、長い間長い堤を造りたいと願っていた。しかし水郷の地で土を取るのが難しかった。嘉祐年間、ある人が計略を献じた。水の中に、ござ・まぐさ・わらで壁を作り、二列に立て、三尺の間隔を空ける。その壁から六尺離れたところに、また一つ壁を同じように作る。水中の泥をすくい取って壁の中に詰め、乾くのを待ち、水車で両壁の間の古い水を汲み出すと、壁の間の六尺はすべて土になった。その半分を堤の基礎として残し、残り半分を掘って水路とし、そこから出た土で堤を築いた。三、四里ごとに橋を一つ造り、南北の水を通した。数日で堤ができあがり、永久に役立つものとなった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』經務・蘇軾復た堰閘を造り、以て湖水の蓄泄の限と為し、然る後に潮は市に入らず、且つ餘力を以て復た六井を完くし、民は稍や其の利を獲たり。軾、間ま湖上に至り、周く視ること良や久しくして曰く、「今、葑田を去らんと欲するも、将た安くにか之を置かん。湖の南北は三十里、湖を環りて往来すれば、終日にして達せず。若し葑田を取りて湖中に積み、長堤と為して以て南北を通ぜしめば、則ち葑田は去りて行く者は便ならん。呉人は麦を種え、春に輒ち芟除して寸草も遺さず。葑田若し去れば、人を募りて麦を種えしめ、その利を収めて以て修湖に備うれば、則ち湖は当に復た堙塞せざるべし」と。乃ち救荒の余りを取り、銭糧の万石を以て数うるものを得、復た朝に請い、百僧の度牒を得て、以て役者を募る。堤成りて、芙蓉・楊柳を其の上に植え、之を望めば図画の如し。杭人、之を名づけて「蘇公堤」と曰う。〔馮述評〕華亭の宋彦云う、「西湖の蓄水は、専ら以て運河を資くるなり。湖浜には水田多く、春夏の間は旱に苦しみ、秋には又た澇に苦しむ。専ら一司を設け、水利を精究するに若くは莫し。湖は宜しく開広濬深すべし。諸山の水溢るれば則ち能く受け、諸田の旱に苦しめば則ち能く泄ぐ。閘司は又た浅深を俟ちて以て啓閉すれば、則ち運に阻滞無く、而して三輔の内の膏腴は相い望むべし」と。按ずるに、此れは宋人が都城の漕計の為にせしなり。其の実、今日も亦た宜しく之を行うべし。邇来、西湖は漸く淤し、力ある者は業を占むるを喜ぶ。地方に任ずる者は、その終わりを慮らざるべからず。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾公始めて至りて二河を浚う。茅山の一河を以て江潮を受け、鹽橋の一河を以て湖水を受く。復た堰閘を造りて以て湖水畜洩の限と爲す。然る後に潮市に入らず。且つ餘力を以て復た六井を完うす。又た葑田を取りて湖中に積みて長堤と爲し、以て南北を通ず。人を募りて菱を湖中に種え、其の利を收めて以て湖を修むるに備う。杭人其の堤を名づけて蘇公堤と曰うと云う。
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『智囊』經務・李若谷・趙昌言安豊の芍陂県は、叔敖の創むる所なり。南北の渠を為り、田を溉ぐこと万頃。民、旱に因りて多く其の間を侵耕し、雨水溢るれば則ち之を盗決し、遂に灌漑の利を失う。李若谷、寿春に知たりて、令を下す、陂の決するも兵夫を起こすを得ず、独り陂に瀕する民を調して之を完築せしむ。是れより盗決する者無し。天雄軍の豪家は芻麦野に亙り、時に奸人は官堤に穴して弊を為す。咸平中、趙昌言、守と為り、廉かに其の事を知り、未だ問わず。一旦、堤潰え、吏、急を告ぐ。昌言、命じて急ぎ豪家の積む所を取りて、給用して堤を塞がしむ。是れより奸は息む。〔馮述評〕近日、東南の漕務は孔だ亟く、冬ごとに壩を作り河を開き、労費は算うる無し。而して丹陽一路は尤も甚だし。其の由を訪うに、則ち居人は歳ごとに夫脚盤剥の値を収め、阻塞を利とす。壩を起こすに当たりては、先ず賄を用いて基を存し、糧の過ぐるを俟ちて後、輒ち深夜に土を填む。冬に至り水涸れれば、疏通を議せざるを得ず。若し李・趙二公の策に依り、一年の労費を竭くして深く開濬を加え、居民に曉示し、後に壅淤あらば、即ち彼の処の自ら撈掘するを責成すれば、庶くは常・鎮の間、或いは肩を息むべきか。或るひと言う、「毎歳の開塞は、独り脚夫のみ之を利とするにあらず、即ち官吏も亦た之を利とす」と。此れは又た愚の敢えて知る所にあらず。
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