智囊 / 謬數・李允則
〔述評〕允則不事威儀,間或步出,遇民有可語者,延坐與語,以此洞知人情。子猶曰:「此便是舜之大智。今人以矜慢為威嚴,以剛愎為任斷;千金在握,而不能購一謀臣;百萬在籍,而不能得一死士;無事而猴冠,有事則鼠竄。從目及矣,尚何言乎?
新字:〔述評〕允則不事威儀,間或歩出,遇民有可語者,延坐与語,以此洞知人情。子猶曰:「此便是舜之大智。今人以矜慢為威厳,以剛愎為任断;千金在握,而不能購一謀臣;百万在籍,而不能得一死士;無事而猴冠,有事則鼠竄。従目及矣,尚何言乎?
書き下し
〔述評〕允則は威儀を事とせず、間に或いは歩み出で、民に語るべき者有るに遇えば、延きて坐せしめて与に語る。此を以て人情を洞知す。子猶曰く、「此れ便ち是れ舜の大智なり。今人は矜慢を以て威厳と為し、剛愎を以て任断と為す。千金は握りに在れども、一謀臣を購う能わず。百万は籍に在れども、一死士を得る能わず。無事なれば猴の冠にして、有事なれば鼠の竄す。従目及ばば、尚お何をか言わんや」と。
現代語訳
〔述評〕李允則は威儀を飾ることをせず、ときには歩いて出かけ、話せる民に出会うと、座らせて語り合った。それによって人情を深く知った。子猶(馮夢龍)は言う。「これこそ舜の大智である。今の人は驕りや傲慢を威厳とし、頑固で人の意見を聞かないことを決断力と考えている。千金を手に握っていても、一人の謀臣を雇えず、百万の兵が名簿にあっても、決死の士を一人得られない。平時には猿が冠をつけたように見かけ倒しで、事が起こると鼠のように逃げ隠れる。見かけ倒しが露見すれば、もう何も言うことはない」。
解説
馮夢龍は、李允則が威張らずに民と気軽に話し、人情を知っていたことを、舜の大きな知恵に通じると評しています。上に立つ者が尊大さを威厳と取り違え、頑固さを決断力と勘違いしていると、財や兵力があっても、本当に役立つ人材を得られません。平時には立派に見えても、有事に逃げ出す人物が育つ組織は、上が現場の声を聞いていない組織です。現代の管理職も、肩書きの威厳に頼るより、現場に出て話を聞き、人の事情を知ることが、判断の質を高めます。偉そうにするほど情報が遠のく、という警告として読めます。
この章句が説くこと
李允則舜の大智矜慢剛愎人情を知る現場主義
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