智囊 / 謬數・王振
北京功德寺後宮像極工麗。僧云,正統時,張太后常幸此,三宿而返。英廟尚幼,從之游。宮殿別寢皆具。太監王振以為,后妃遊幸佛寺,非盛典也,乃密造此佛。既成,請英廟進言於太后曰:「母后大德,子無以報,已命裝佛一堂,請致功德寺後宮,以酬厚德。」太后大喜,許之,命中書舍人寫金字藏經置東西房。自是太后以佛、經在,不可就寢,不復出幸。〔評〕君子之智,亦有一短。小人之智,亦有一長。小人每拾君子之短,所以為小人;君子不棄小人之長,所以為君子。
新字:北京功徳寺後宮像極工麗。僧云,正統時,張太后常幸此,三宿而返。英廟尚幼,従之游。宮殿別寝皆具。太監王振以為,后妃遊幸仏寺,非盛典也,乃密造此仏。既成,請英廟進言於太后曰:「母后大徳,子無以報,已命装仏一堂,請致功徳寺後宮,以酬厚徳。」太后大喜,許之,命中書舎人写金字蔵経置東西房。自是太后以仏、経在,不可就寝,不復出幸。〔評〕君子之智,亦有一短。小人之智,亦有一長。小人毎拾君子之短,所以為小人;君子不棄小人之長,所以為君子。
書き下し
北京の功徳寺の後宮の像は極めて工麗なり。僧云う、正統の時、張太后常に此に幸し、三宿して返る。英廟は尚お幼く、之に従いて游ぶ。宮殿・別寝は皆具わる。太監王振は以為えらく、后妃の仏寺に遊幸するは盛典に非ずと。乃ち密かに此の仏を造る。既に成り、英廟に請いて太后に進言せしめて曰く、「母后の大徳、子は以て報ゆる無し。已に仏一堂を装わしめ、功徳寺の後宮に致して、以て厚徳に酬いんことを請う」と。太后大いに喜び、之を許す。中書舎人に命じて金字の蔵経を写して東西の房に置かしむ。是れ自り太后は仏・経在るを以て、就寝すべからずとして、復た出幸せず。〔評〕君子の智にも亦一短有り。小人の智にも亦一長有り。小人は毎に君子の短を拾う。小人たる所以なり。君子は小人の長を棄てず。君子たる所以なり。
現代語訳
北京の功徳寺の後宮にある仏像は、きわめて精巧で美しい。僧が言うには、正統年間に張太后がたびたびここに行幸し、三泊して帰った。英宗はまだ幼く、一緒に遊びに来ていた。宮殿や別室はすべて備わっていた。宦官の王振は、后妃が仏寺に遊幸するのは盛大な儀礼ではないと考えた。そこで密かにこの仏像を造った。完成すると、英宗に頼んで太后に申し上げさせた。「母后の大いなる徳に、子として報いるすべがありません。すでに仏像一堂を整えさせましたので、功徳寺の後宮に安置し、厚い徳に報いたいのです」。太后は大いに喜んで許した。中書舎人に命じて金字の経典を写させ、東西の部屋に置かせた。それ以来、太后は仏と経典がそこにあるので、寝泊まりはできないとして、二度と行幸しなかった。〔評〕君子の智にも一つの短所があり、小人の智にも一つの長所がある。小人はいつも君子の短所を拾う。それが小人たる所以である。君子は小人の長所を捨てない。それが君子たる所以である。
解説
この章句が説くこと
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