智囊 / 謬數・傅珪
康陵好佛,自稱「大慶法王」。外廷聞之,無徵以諫。俄內批禮部番僧請腴田千畝,為大慶法王下院,乃書「大慶法王與聖旨」。傅尚書珪佯不知,執奏:「孰為大慶法王者,敢並至尊書,褻天子、壞祖宗法,大不敬!」詔勿問,田亦竟止。
新字:康陵好仏,自称「大慶法王」。外廷聞之,無徴以諫。俄内批礼部番僧請腴田千畝,為大慶法王下院,乃書「大慶法王与聖旨」。傅尚書珪佯不知,執奏:「孰為大慶法王者,敢並至尊書,褻天子、壊祖宗法,大不敬!」詔勿問,田亦竟止。
書き下し
康陵は仏を好み、自ら「大慶法王」と称す。外廷これを聞くも、以て諫むるに徴無し。俄かに内批もて礼部に番僧の腴田千畝を請い、大慶法王の下院と為さんとす。乃ち「大慶法王与聖旨」と書す。傅尚書珪は佯り知らざるが如くして、執奏す、「孰か大慶法王為る者ぞ。敢えて至尊と並び書し、天子を褻し、祖宗の法を壊す。大不敬なり」と。詔して問う勿く、田も亦竟に止む。
現代語訳
正徳帝は仏を好み、自ら「大慶法王」と称した。外廷の臣下たちはこれを聞いたが、諫める根拠がなかった。やがて、内廷から礼部に宛てて、チベット僧のために肥沃な田一千畝を与え、大慶法王の下院にしたいという指示が出された。その文書には「大慶法王、聖旨を与う」と書かれていた。礼部尚書の傅珪は知らないふりをして上奏した。「大慶法王とは誰か。至尊の名と並べて書き、天子を軽んじ、祖宗の法を壊す。大不敬である」。皇帝は詔して問わないことにし、田の件も結局取りやめになった。
解説
皇帝自身が名乗っている称号について、直接批判すれば不敬になります。そこで傅珪は、そんな称号を知らないふりをして、天子と並べて書いたのは誰かと追及しました。皇帝は自分のことだと分かっているので、問い詰めることができず、結果として要求も取り下げざるを得なくなりました。相手が自分で作った論理の穴を、知らないふりをして突くことで、顔を潰さずに止めた巧みな話です。現代の職場でも、上司の肝いりの案件を止めたいとき、直接の否定でなく、ルールや前例に照らした疑問を形式的に出す方法が、角を立てずに効く場合があります。
この章句が説くこと
大慶法王知らぬふり大不敬傅珪諫言体面を保つ
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『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
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葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上又喩ヘテ云ハ。賢君明主ハ忠臣ヲ信任シ。諫言ヲ用ル如クシヤ。漢ノ高祖カ諫ニ従フコト流ノ如ク。唐ノ太宗ノ魏徴カ苦諫ノ言ヲ用ヒアリシ類。ソノ如ク。正法ノ因縁アル者ハ必ス不邪見戒ニ随順スルシヤ。此ニ反シテ宿福ナキ者ハ。智者モ愚者モ。学者モ不学者モ仏アルコトヲ信セヌ。法アルコトヲ信セヌ。聖賢アルコトヲ信セヌ。神祇有コトヲ信セヌ。善悪報応有コトヲ信セヌシヤ。
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