智囊 / 識斷・陸光祖
平湖陸太宰光祖,初為濬令。濬有富民,枉坐重辟,數十年相沿,以其富,不敢為之白。陸至訪實,即日破械出之,然後聞於台使者,使者曰:「此人富有聲。」陸曰:「但當問其枉不枉,不當問其富不富。果不枉,夷、齊無生理;果枉,陶朱無死法。」台使者甚器之。後行取為吏部,黜陟自由,絕不關白台省。時孫太宰丕揚在省中,以專權劾之。即落職,辭朝遇孫公,因揖謂曰:「承老科長見教,甚荷相成。但今日吏部之門,囑托者眾,不專何以申公道?老科長此疏實誤也!」孫沉思良久,曰:「誠哉,吾過矣。」即日草奏,自劾失言,而力薦陸。陸由是復起。時兩賢之。〔馮述評〕為陸公難,為孫公更難。葛端肅以秦左伯入覲,有小吏注考「老疾」,當罷。公復為請留,太宰曰:「計簿出自藩伯。何自忘也?」公曰:「邊吏去省遠甚,注考徒據文書,今親見其人甚壯,正堪驅策,方知誤注。過在布政,何可使小吏受枉?」太宰驚服,曰:「誰能於吏部堂上自實過誤?即此是賢能第一矣!」此宰與孫公相類。葛公固高,此吏部亦高。因記萬曆己未,閩左伯黃琮為一主簿力爭其枉,當軸者甚不喜,曰:「以二品大吏為九品官苦口,其伎倆可知。」為之注調。人之識見不侔如此!
新字:平湖陸太宰光祖,初為濬令。濬有富民,枉坐重辟,数十年相沿,以其富,不敢為之白。陸至訪実,即日破械出之,然後聞於台使者,使者曰:「此人富有声。」陸曰:「但当問其枉不枉,不当問其富不富。果不枉,夷、斉無生理;果枉,陶朱無死法。」台使者甚器之。後行取為吏部,黜陟自由,絶不関白台省。時孫太宰丕揚在省中,以専権劾之。即落職,辞朝遇孫公,因揖謂曰:「承老科長見教,甚荷相成。但今日吏部之門,囑托者衆,不専何以申公道?老科長此疏実誤也!」孫沈思良久,曰:「誠哉,吾過矣。」即日草奏,自劾失言,而力薦陸。陸由是復起。時両賢之。〔馮述評〕為陸公難,為孫公更難。葛端粛以秦左伯入覲,有小吏注考「老疾」,当罷。公復為請留,太宰曰:「計簿出自藩伯。何自忘也?」公曰:「辺吏去省遠甚,注考徒拠文書,今親見其人甚壮,正堪駆策,方知誤注。過在布政,何可使小吏受枉?」太宰驚服,曰:「誰能於吏部堂上自実過誤?即此是賢能第一矣!」此宰与孫公相類。葛公固高,此吏部亦高。因記万暦己未,閩左伯黄琮為一主簿力争其枉,当軸者甚不喜,曰:「以二品大吏為九品官苦口,其伎倆可知。」為之注調。人之識見不侔如此!
書き下し
平湖の陸太宰光祖、初め濬の令たり。濬に富民有り、枉げて重辟に坐し、数十年相沿い、其の富を以て、敢えて之が為に白さず。陸、至りて訪ね実とし、即日械を破りて之を出し、然る後に台使者に聞す。使者曰く、「此の人は富の声有り」と。陸曰く、「但だ当に其の枉ぐるか枉げざるかを問うべし。当に其の富むか富まざるかを問うべからず。果たして枉げざれば、夷・斉も生理無し。果たして枉ぐれば、陶朱も死法無し」と。台使者甚だ之を器とす。後、行取されて吏部と為り、黜陟自由にして、絶えて台省に関白せず。時に孫太宰丕揚、省中に在りて、専権を以て之を劾す。即ち職を落とされ、辞朝して孫公に遇い、因りて揖して謂いて曰く、「老科長の教えを承け、甚だ成るを荷う。但し今日の吏部の門は、嘱託する者衆し。専らにせずんば何を以て公道を申べん。老科長の此の疏は実に誤りなり」と。孫、沈思すること良や久しく、曰く、「誠なるかな、吾が過てり」と。即日、草奏して、自ら失言を劾し、而して力めて陸を薦む。陸、是に由りて復た起つ。時に両賢これを賢とす。〔馮述評〕陸公の為には難く、孫公の為には更に難し。葛端粛、秦の左伯を以て入覲す。小吏の注考に「老疾」とある者有り、当に罷むべし。公、復た為に留めんことを請う。太宰曰く、「計簿は藩伯より出づ。何ぞ自ら忘るるや」と。公曰く、「辺吏は省を去ること遠きこと甚し。注考は徒だ文書に拠る。今、親しく其の人を見るに甚だ壮にして、正に驅策に堪う。方に誤注を知る。過は布政に在り。何ぞ小吏をして枉げを受けしむべけんや」と。太宰驚き服して曰く、「誰か能く吏部の堂上に於いて自ら過誤を実とせん。即ち此れ賢能の第一なり」と。此の宰は孫公と相類す。葛公は固より高し、此の吏部も亦た高し。因りて記す、万暦己未、閩の左伯黄琮、一主簿の為に其の枉げを力争す。当軸者甚だ喜ばず、曰く、「二品の大吏を以て九品の官の為に苦口す。其の技倆知るべし」と。之が為に注調す。人の識見の侔しからざること此くの如し。
現代語訳
平湖の吏部尚書・陸光祖は、はじめ濬県の県令でした。濬県に豊かな民がいて、冤罪で重罪に問われ、数十年そのままで、その富ゆえに、誰も敢えて無実を訴えませんでした。陸光祖は着任するとすぐに調べて実情を確かめ、その日のうちに枷をはずして釈放し、そのあとで監察の使者に報告しました。使者は言いました。「この者は富豪という評判がある。」陸光祖は言いました。「ただ、冤罪かどうかを問うべきで、富んでいるかどうかを問うべきではありません。もし冤罪でなければ、伯夷叔斉でも生きる道はありません。もし冤罪なら、陶朱公でも死ぬ法はありません。」使者はたいへん感心しました。のちに抜擢されて吏部に入り、人事の昇降は自由にして、まったく監察官庁に相談しませんでした。そのとき孫丕揚は給事中で、専断だとして陸光祖を弾劾しました。陸光祖は職を落とされ、朝廷を辞する時に孫丕揚に出会って、会釈して言いました。「先輩のご教示をいただき、成長をありがたくいただきます。ただ、今日の吏部の門には、頼み事をする者が多い。専断しなければ、どうして公道を行えましょうか。先輩のこの上奏は誤りでした。」孫丕揚は長く沈思して言いました。「まことに、私が間違っていた。」その日のうちに上奏を草して、自ら失言を弾劾し、力を尽くして陸光祖を推薦しました。陸光祖はこれによって再び起用され、当時の人々は二人を賢いとしました。〔馮述評〕陸公にとって難しいことですが、孫公にとってはいっそう難しいことです。葛端粛は秦の左布政使として入朝しました。小役人の考課に「老いて病」とあって、罷免されるはずの者がいました。葛公はその者のために留任を願い出ました。吏部尚書は言いました。「考課簿は布政使のもとから出たものです。どうして忘れたのですか。」公は言いました。「辺境の役人は省から遠く離れています。考課は文書によるだけです。いま実際に見ると非常に壮健で、まさに働けます。そこで誤記と分かりました。過ちは布政使にあります。どうして小役人に冤罪を負わせられましょう。」尚書は驚いて感服して言いました。「吏部の堂上で自ら過誤を認める者がいるでしょうか。これこそ賢能の第一です。」この尚書は孫公に似ています。葛公ももとより高潔ですが、この吏部も高いものです。ここで思い出すのは万暦己未のこと、福建の左布政使・黄琮が一人の主簿のために冤罪を力争したところ、権力者はたいそう不快に思い、「二品の大官が九品の官のためにしつこく言うとは、その手腕は知れている」と言って、異動させました。人の識見の違いはこのとおりです。
解説
この章句が説くこと
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