智囊 / 識斷・劉璽・唐侃
嘉靖中,戚畹郭勛怙寵,率遣人市南物,逼脅漕總,領俵各船,分載入都以牟利。運事困憊,多緣此故。都督劉公璽時為漕總,乃預置一棺於舟中,右手持刀,左手招權奸狠乾,言:「若能死,犯吾舟。吾殺汝,即自殺臥棺中,以明若輩之害吾軍也!吾不能納若貨以困吾軍!」諸乾懼而退,然終亦不能害公。〔馮述評〕權奸營私,漕事壞矣。不如此發惡一番,弊何時已也!從前依阿釀弊者,只是漕總怕眾狠乾耳。從狠乾怎敢與漕總為難,決生死哉!按:劉璽,字國信,居官清苦,號「劉窮」,又號「劉青菜」。御史穆相薦剡中曾及此語。及推總漕,上識其名,喜曰:「是前窮鬼耶?」亟可其奏。則權奸之終不能害公也,公素有以服之也。公晚年祿入浸厚,自奉稍豐。有覬代其職者,嗾言官劾罷之,疏云:「昔為青菜劉,今為黃金璽。」人稱其冤。因記陳尚書奉初為給諫,直論時政得失,不彈劾人,曰:「吾父戒我勿作刑官枉人;若言官,枉人尤甚!吾不敢妄言也!」因於劉國信三歎。
新字:嘉靖中,戚畹郭勛怙寵,率遣人市南物,逼脅漕総,領俵各船,分載入都以牟利。運事困憊,多縁此故。都督劉公璽時為漕総,乃預置一棺於舟中,右手持刀,左手招権奸狠乾,言:「若能死,犯吾舟。吾殺汝,即自殺臥棺中,以明若輩之害吾軍也!吾不能納若貨以困吾軍!」諸乾懼而退,然終亦不能害公。〔馮述評〕権奸営私,漕事壊矣。不如此発悪一番,弊何時已也!従前依阿醸弊者,只是漕総怕衆狠乾耳。従狠乾怎敢与漕総為難,決生死哉!按:劉璽,字国信,居官清苦,号「劉窮」,又号「劉青菜」。御史穆相薦剡中曽及此語。及推総漕,上識其名,喜曰:「是前窮鬼耶?」亟可其奏。則権奸之終不能害公也,公素有以服之也。公晩年禄入浸厚,自奉稍豊。有覬代其職者,嗾言官劾罷之,疏云:「昔為青菜劉,今為黄金璽。」人称其冤。因記陳尚書奉初為給諫,直論時政得失,不弾劾人,曰:「吾父戒我勿作刑官枉人;若言官,枉人尤甚!吾不敢妄言也!」因於劉国信三嘆。
書き下し
嘉靖中、戚畹の郭勲、寵を怙み、率ね人を遣わして南物を市わしめ、漕総を逼脅し、各船に領俵せしめ、分載して都に入れて以て利を牟る。運事の困憊するは、多く此れに縁る。都督の劉公璽、時に漕総たり。乃ち預め一棺を舟中に置き、右手に刀を持ち、左手に権奸の狠乾を招きて、言う、「若し能く死せんとせば、吾が舟を犯せ。吾、汝を殺し、即ち自ら殺して棺中に臥し、以て若輩の吾が軍を害するを明らかにせん。吾、若が貨を納めて以て吾が軍を困らすこと能わず」と。諸乾、懼れて退く。然れども終に公を害すること能わず。〔馮述評〕権奸、私を営めば、漕事壊る。此くの如く一番悪を発せずんば、弊は何れの時にか已まん。従前、阿りて弊を醸せし者は、只だ是れ漕総が衆狠乾を怕るるのみ。狠乾に従いて、怎んぞ敢えて漕総と難を為し、生死を決せんや。按ずるに、劉璽、字は国信、官に居りて清苦、号して「劉窮」と為し、又た「劉青菜」と号す。御史の穆相の薦剡中、曾て此の語に及ぶ。総漕に推すに及び、上その名を識り、喜びて曰く、「是れ前の窮鬼か」と。亟かにその奏を可とす。則ち権奸の終に公を害すること能わざるは、公に素より以て服せしむるもの有ればなり。公、晩年、禄入浸く厚く、自ら奉ずること稍や豊かなり。その職に代わらんと覬う者有り、言官を嗾して劾して罷めしむ。疏に云う、「昔は青菜の劉たり、今は黄金の璽たり」と。人その冤を称す。因りて記す、陳尚書の奉初、給諫たりし時、直ちに時政の得失を論じ、人を弾劾せず、曰く、「吾が父、我を戒めて刑官となりて人を枉ぐること勿かれと。言官の若きは、人を枉ぐること尤も甚し。吾、敢えて妄りに言わず」と。因りて劉国信に於いて三たび歎ず。
現代語訳
嘉靖年間、皇室の外戚である郭勲は寵愛をたのみ、いつも人を遣わして南方の産物を買わせ、漕運の総責任者に迫って、各船に割り当てて積ませ、都に運び入れて利益をむさぼっていました。漕運が疲弊したのは、多くはこれが原因です。都督の劉璽はそのとき漕運総督でした。そこで、あらかじめ棺を一つ船の中に置き、右手に刀を持ち、左手で権力者の手先の荒くれ者を呼んで言いました。「死ぬ覚悟があるなら、私の船を犯してみろ。私はおまえを殺し、すぐ自分も死んで棺に臥し、おまえたちが我が軍を害していることを明らかにしてやる。私はおまえたちの荷を受け入れて我が軍を苦しめることはできない。」荒くれ者たちはおそれて退きました。それでも最後まで劉璽を害することはできませんでした。〔馮述評〕権力者の手先が私利を営めば、漕運は壊れます。このように一度悪をあらわにしなければ、弊害はいつやむでしょうか。これまで迎合して弊害を作ってきた者は、ただ漕運総督が荒くれ者たちを恐れていただけなのです。荒くれ者たちが、どうして漕運総督と難を構え、生死を争えましょうか。また記しておくと、劉璽は字を国信といい、官にあっても清貧で、「劉窮」とも「劉青菜」とも呼ばれました。御史の穆相が推薦した文書の中に、この言葉が出ていました。漕運総督に推されると、帝はその名を知っていて、喜んで言いました。「あの貧乏人か。」すぐにその奏上を許可しました。権力者の手先がついに劉璽を害せなかったのは、彼にふだんから人を服させるものがあったからです。劉璽は晩年、俸禄が次第に厚くなり、暮らしはやや豊かになりました。その職を狙う者が、言官をそそのかして弾劾させ、辞めさせました。上奏には「昔は青菜の劉、今は黄金の璽」とありました。人々はその冤罪を言い立てました。ここで思い出すのは、陳奉初尚書が給事中だったとき、ただ政治の得失を論じ、人を弾劾せず、こう言ったことです。「私の父は、刑官になって人を冤罪に陥れてはならないと戒めた。言官は人を陥れることが特に甚だしい。私は軽々しく言わない。」そこで劉国信について三たびため息をつきます。
解説
この章句が説くこと
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