智囊 / 識斷・齊桓公
任登為中牟令,薦士於襄主曰瞻胥已,襄主以為中大夫。相室諫曰:「君其耳而未之目也?為中大夫若此其易也!」襄子曰:「我取登,既耳而目之矣,登之所取,又耳而目之,是耳目人終無已也!」此亦齊桓之智也。
新字:任登為中牟令,薦士於襄主曰瞻胥已,襄主以為中大夫。相室諫曰:「君其耳而未之目也?為中大夫若此其易也!」襄子曰:「我取登,既耳而目之矣,登之所取,又耳而目之,是耳目人終無已也!」此亦斉桓之智也。
書き下し
任登は中牟の令と為り、士を襄主に薦めて瞻胥己と曰う。襄主は以て中大夫と為す。相室諫めて曰く、「君は其れ耳にして未だ之を目にせざるか。中大夫と為すこと、此の若く其れ易きか」と。襄子曰く、「我は登を取るに、既に耳にして之を目にせり。登の取る所も、又た耳にして之を目にせば、是れ人を耳目すること終に已む無きなり」と。此れ亦た斉桓の智なり。
現代語訳
任登は中牟の県令であったとき、士人の瞻胥己を襄主(趙襄子)に推薦した。襄主は彼を中大夫に任じた。宰相が諫めて言った。「あなたはその人の評判を耳にしただけで、まだ目で見て確かめていないのではありませんか。中大夫にするのが、こんなに簡単でよいのですか」。襄子は言った。「私が任登を取り立てたとき、すでに評判を聞き、人物を自分の目で見ている。任登が取り立てる人物についてまた、聞いたり見たりして確かめようとすれば、人を耳目で確かめることは、いつまでたっても終わらない」。これもまた斉の桓公と同じ智慧である。
解説
趙襄子は、信頼する任登が推薦した人物を、改めて自分で確かめることなく登用しました。信頼できる人物の推薦を信じることで、人材の確認が際限なく続くのを防ぐという考え方です。馮夢龍は、これを先の桓公の判断と同じ智として並べています。管理職にとって、全ての人事を自分で検証するのは現実的ではなく、信頼できる人に任せる仕組みが重要です。ただし、推薦者の目が確かであることが前提であり、その人物の評価を定期的に見直すことも必要です。信頼と検証の線引きを考えるきっかけになる話です。
この章句が説くこと
耳目推薦信頼人材登用任せる中大夫
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