史記 / 樊酈滕灌列伝
漢王遁而西,嬰從還,軍於雍丘。王武、魏公申徒反,從擊破之。攻下黃,西收兵,軍於滎陽。楚騎來眾,漢王乃擇軍中可為騎將者,皆推故秦騎士重泉人李必、駱甲習騎兵,今為校尉,可為騎將。漢王欲拜之,必、甲曰:「臣故秦民,恐軍不信臣,臣願得大王左右善騎者傅之。」灌嬰雖少,然數力戰,乃拜灌嬰為中大夫,令李必、駱甲為左右校尉,將郎中騎兵擊楚騎於滎陽東,大破之。受詔別擊楚軍後,絕其餉道,起陽武至襄邑。擊項羽之將項冠於魯下,破之,所將卒斬右司馬、騎將各一人。擊破柘公王武,軍於燕西,所將卒斬樓煩將五人,連尹一人。擊王武別將桓嬰白馬下,破之,所將卒斬都尉一人。以騎渡河南,送漢王到雒陽,使北迎相國韓信軍於邯鄲。還至敖倉,嬰遷為御史大夫。三年,以列侯食邑杜平鄉。以御史大夫受詔將郎中騎兵東屬相國韓信,擊破齊軍於歷下,所將卒虜車騎將軍華毋傷及將吏四十六人。降下臨菑,得齊守相田光。追齊相田橫至嬴、博,破其騎,所將卒斬騎將一人,生得騎將四人。攻下嬴、博,破齊將軍田吸於千乘,所將卒斬吸。
新字:漢王遁而西,嬰従還,軍於雍丘。王武、魏公申徒反,従撃破之。攻下黄,西収兵,軍於滎陽。楚騎来衆,漢王乃択軍中可為騎将者,皆推故秦騎士重泉人李必、駱甲習騎兵,今為校尉,可為騎将。漢王欲拝之,必、甲曰:「臣故秦民,恐軍不信臣,臣願得大王左右善騎者傅之。」灌嬰雖少,然数力戦,乃拝灌嬰為中大夫,令李必、駱甲為左右校尉,将郎中騎兵撃楚騎於滎陽東,大破之。受詔別撃楚軍後,絶其餉道,起陽武至襄邑。撃項羽之将項冠於魯下,破之,所将卒斬右司馬、騎将各一人。撃破柘公王武,軍於燕西,所将卒斬楼煩将五人,連尹一人。撃王武別将桓嬰白馬下,破之,所将卒斬都尉一人。以騎渡河南,送漢王到雒陽,使北迎相国韓信軍於邯鄲。還至敖倉,嬰遷為御史大夫。三年,以列侯食邑杜平郷。以御史大夫受詔将郎中騎兵東属相国韓信,撃破斉軍於歴下,所将卒虜車騎将軍華毋傷及将吏四十六人。降下臨菑,得斉守相田光。追斉相田横至嬴、博,破其騎,所将卒斬騎将一人,生得騎将四人。攻下嬴、博,破斉将軍田吸於千乗,所将卒斬吸。
書き下し
漢王遁れて西し、嬰従ひて還り、雍丘に軍す。王武・魏公申徒反し、従ひて撃ちて之を破る。外黄を攻め下し、西して兵を収め、滎陽に軍す。楚の騎来ること衆く、漢王乃ち軍中の騎将と為すべき者を択ぶに、皆故の秦の騎士重泉の人李必・駱甲の騎兵に習ひ、今校尉為り、騎将と為すべしと推す。漢王之を拝せんと欲するに、必・甲曰く「臣は故の秦の民なり、軍の臣を信ぜざるを恐る、臣願はくは大王の左右の騎を善くする者を得て之に傅けん」と。灌嬰少しと雖も、然れども数々力戦す、乃ち灌嬰を拝して中大夫と為し、李必・駱甲をして左右の校尉と為し、郎中の騎兵を将ゐて楚の騎を滎陽の東に撃たしめ、大いに之を破る。詔を受けて別れて楚軍の後を撃ち、其の餉道を絶ち、陽武より起こりて襄邑に至る。項羽の将項冠を魯の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒右司馬・騎将各一人を斬る。柘公王武を撃破し、燕の西に軍し、将ゐる所の卒楼煩の将五人、連尹一人を斬る。王武の別将桓嬰を白馬の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒都尉一人を斬る。騎を以て河を渡りて南し、漢王を送りて雒陽に到り、北して相国韓信の軍を邯鄲に迎へしむ。還りて敖倉に至り、嬰遷りて御史大夫と為る。三年、列侯を以て杜の平郷に食邑す。御史大夫を以て詔を受け郎中の騎兵を将ゐて東して相国韓信に属し、斉軍を歴下に撃破し、将ゐる所の卒車騎将軍華毋傷及び将吏四十六人を虜にす。臨菑を降し下し、斉の守相田光を得。斉の相田横を追ひて嬴・博に至り、其の騎を破り、将ゐる所の卒騎将一人を斬り、騎将四人を生け得。嬴・博を攻め下し、斉の将軍田吸を千乗に破り、将ゐる所の卒吸を斬る。
現代語訳
漢王は逃れて西へ向かい、嬰も従って引き返し、雍丘に陣取った。王武と魏公申徒が背いたので、従って撃ち破った。外黄を攻め落とし、西へ向かって兵を集め、滎陽に陣取った。楚の騎兵が大挙して押し寄せたので、漢王は軍中から騎将に任じられる者を選ぼうとした。すると皆が、もと秦の騎兵で重泉出身の李必と駱甲は騎兵の扱いに慣れており、今は校尉であるから騎将にふさわしいと推した。漢王が二人を任じようとすると、李必と駱甲は「私どもはもとは秦の民ですから、軍の者たちが私どもを信用しないのではないかと心配だ。大王の側近で騎兵に巧みな者を得て、その方の補佐としていただきたい」と言った。灌嬰は若かったが、何度も力戦していたので、灌嬰を中大夫に任じ、李必・駱甲を左右の校尉とし、郎中の騎兵を率いて楚の騎兵を滎陽の東で撃たせ、大いに破った。詔を受けて別動隊として楚軍の背後を撃ち、その糧道を断ち、陽武から襄邑に至るまでを制した。項羽の将項冠を魯の城下で撃って破り、率いる兵が右司馬と騎将を各一人斬った。柘公(しゃこう)王武を撃破して燕の西に陣取り、率いる兵が楼煩(騎射に長けた部族出身)の将五人と連尹一人を斬った。王武の別将桓嬰を白馬の城下で撃って破り、率いる兵が都尉一人を斬った。騎兵を率いて黄河を南へ渡り、漢王を雒陽まで送り届け、漢王の命で北へ向かい、相国韓信の軍を邯鄲に迎えに行った。引き返して敖倉に至り、嬰は御史大夫に昇った。三年、列侯として杜の平郷を食邑とした。御史大夫として詔を受け、郎中の騎兵を率いて東へ向かい相国韓信の配下に入り、斉軍を歴下で撃破し、率いる兵が車騎将軍華毋傷(かぶしょう)と将吏四十六人を捕虜にした。臨菑(りんし)を降伏させて落とし、斉の守相田光を捕らえた。斉の相田横を追って嬴・博に至り、その騎兵を破り、率いる兵が騎将一人を斬り、騎将四人を生け捕りにした。嬴・博を攻め落とし、斉の将軍田吸を千乗で破り、率いる兵が田吸を斬った。
解説
関連する章句
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史記 樊酈滕灌列伝東して韓信に従ひて龍且・留公旋を高密に攻め、卒に龍且を斬り、右司馬・連尹各一人、楼煩の将十人を生け得、身ら亜将周蘭を生け得。斉の地已に定まり、韓信自ら立ちて斉王と為り、嬰をして別将として楚の将公杲を魯の北に撃たしめ、之を破る。転じて南し、薛郡の長を破り、身ら騎将一人を虜にす。傅陽を攻め、前みて下相以東南の僮・取慮・徐に至る。淮を度り、尽く其の城邑を降し、広陵に至る。項羽項声・薛公・郯公をして復た淮北を定めしむ。嬰淮北を度り、項声・郯公を下邳に撃破し、薛公を斬り、下邳を下し、楚の騎を平陽に撃破し、遂に彭城を降し、柱国項佗を虜にし、留・薛・沛・酇・蕭・相を降す。苦・譙を攻め、復た亜将周蘭を得。漢王と頤郷に会す。従ひて項籍の軍を陳の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒楼煩の将二人を斬り、騎将八人を虜にす。食邑二千五百戸を賜益す。項籍垓下に敗れて去るや、嬰御史大夫を以て詔を受け車騎を将ゐて別れて項籍を追ひて東城に至り、之を破る。将ゐる所の卒五人共に項籍を斬り、皆爵列侯を賜はる。左右司馬各一人、卒万二千人を降し、尽く其の軍の将吏を得。東城・歴陽を下す。江を渡り、呉郡の長を呉の下に破り、呉の守を得、遂に呉・豫章・会稽郡を定む。還りて淮北を定むること、凡そ五十二県。漢王立ちて皇帝と為り、嬰の邑三千戸を賜益す。其の秋、車騎将軍を以て従ひて燕王臧荼を撃破す。明年、従ひて陳に至り、楚王信を取る。還りて、符を剖き、世世絶ゆること勿からしめ、潁陰の二千五百戸に食み、号して潁陰侯と曰ふ。車騎将軍を以て従ひて反せる韓王信を代に撃ち、馬邑に至り、詔を受けて別れて楼煩以北の六県を降し、代の左相を斬り、胡騎を武泉の北に破る。
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史記 樊酈滕灌列伝復た従ひて韓信の胡騎を晋陽の下に撃ち、将ゐる所の卒胡の白題の将一人を斬る。詔を受けて燕・趙・斉・梁・楚の車騎を并せ将ゐ、胡騎を硰石に撃破す。平城に至り、胡の囲む所と為り、従ひて還りて東垣に軍す。従ひて陳豨を撃ち、詔を受けて別れて豨の丞相侯敞の軍を曲逆の下に攻め、之を破り、卒に敞及び特将五人を斬る。曲逆・盧奴・上曲陽・安国・安平を降す。東垣を攻め下す。黥布反し、車騎将軍を以て先づ出で、布の別将を相に攻め、之を破り、亜将・楼煩の将三人を斬る。又進みて布の上柱国の軍及び大司馬の軍を撃破す。又進みて布の別将肥誅を破る。嬰身ら左司馬一人を生け得、将ゐる所の卒其の小将十人を斬り、北ぐるを追ひて淮上に至る。二千五百戸を益食す。布已に破れ、高帝帰り、定めて嬰をして潁陰の五千戸に食ましめ、前に食む所の邑を除く。凡そ従ひて二千石二人を得、別れて軍を破ること十六、城を降すこと四十六、国一・郡二・県五十二を定め、将軍二人、柱国・相国各一人、二千石十人を得。嬰布を破りて帰りしより、高帝崩じ、嬰列侯を以て孝恵帝及び呂太后に事ふ。太后崩じ、呂禄等趙王を以て自ら置きて将軍と為り、長安に軍し、乱を為す。斉の哀王之を聞き、兵を挙げて西し、且に入りて当に王たるべからざる者を誅せんとす。上将軍呂禄等之を聞き、乃ち嬰を遣はして大将と為し、軍を将ゐて往きて之を撃たしむ。嬰行きて滎陽に至り、乃ち絳侯等と謀り、因りて兵を滎陽に屯し、斉王に風するに呂氏を誅するの事を以てし、斉の兵止まりて前まず。絳侯等既に諸呂を誅し、斉王兵を罷めて帰り、嬰も亦た兵を罷めて滎陽より帰り、絳侯・陳平と共に代王を立てて孝文皇帝と為す。孝文皇帝是に於て嬰に三千戸を益封し、黄金千斤を賜ひ、拝して太尉と為す。
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史記 高祖本紀漢王酈生をして往きて斉王田広に説かしむ、広楚に叛き、漢と和し、共に項羽を撃たんとす。韓信蒯通の計を用ゐ、遂に襲ひて斉を破る。斉王酈生を烹、東のかた高密に走る。項羽韓信已に河北の兵を挙げて斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、則ち龍且・周蘭をして往きて之を撃たしむ。韓信与に戦ふ、騎将灌嬰撃ちて、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。斉王広彭越に奔る。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。四年、項羽乃ち海春侯大司馬曹咎に謂ひて曰く、「謹みて成皋を守れ。若し漢挑戦すとも、慎みて与に戦ふ勿かれ、東するを得しむる無きのみ。我十五日にして必ず梁の地を定め、復た将軍に従はん。」と。乃ち行きて陳留・外黄・睢陽を撃ち、之を下す。漢果たして数(しばしば)楚の軍に挑む、楚の軍出でず、人をして之を辱めしむること五六日、大司馬怒り、兵を汜水に度す。士卒半ば渡る、漢之を撃ち、大いに楚の軍を破り、尽く楚国の金玉貨賂を得たり。大司馬咎・長史欣皆汜水の上に自剄す。項羽睢陽に至り、海春侯の破るるを聞き、乃ち兵を引きて還る。漢の軍方に鍾離眛を滎陽の東に囲む、項羽至る、尽く険阻に走る。韓信已に斉を破り、人をして言はしめて曰く、「斉は楚に辺し、権軽し、仮王と為らずんば、恐らくは斉を安んずる能はざらん。」と。漢王之を攻めんと欲す。留侯曰く、「因りて之を立て、自ら守りを為さしむるに如かず。」と。乃ち張良を遣はして印綬を操りて韓信を立てて斉王と為す。項羽龍且の軍の破るるを聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて韓信に説かしむ。韓信聴かず。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転饟に罷る。漢王・項羽相与に広武の間に臨みて語る。項羽漢王と独身にて挑戦せんと欲す。
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史記 樊酈滕灌列伝還りて三秦を定め、従ひて項籍を撃つ。彭城に至り、項羽大いに漢軍を破る。漢王敗れ、利あらず、馳せ去る。孝恵・魯元を見て、之を載す。漢王急にして、馬罷れ、虜後に在り、常に両児を蹶りて之を棄てんと欲す、嬰常に収め、竟に之を載せ、徐ろに行きて雍樹に面して乃ち馳す。漢王怒り、行くゆく嬰を斬らんと欲する者十余、卒に脱するを得て、孝恵・魯元を豊に致す。漢王既に滎陽に至り、散兵を収め、復た振ひ、嬰に祈陽を食ましむ。復た常に車を奉じて従ひて項籍を撃ち、追ひて陳に至り、卒に楚を定め、魯に至り、茲氏を益食す。漢王立ちて帝と為る。其の秋、燕王臧荼反し、嬰太僕を以て従ひて荼を撃つ。明年、従ひて陳に至り、楚王信を取る。更めて汝陰に食み、符を剖きて世世絶ゆること勿からしむ。太僕を以て従ひて代を撃ち、武泉・雲中に至り、千戸を益食す。因りて従ひて韓信の軍の胡騎を晋陽の旁に撃ち、大いに之を破る。北ぐるを追ひて平城に至り、胡の囲む所と為り、七日通ずるを得ず。高帝使をして厚く閼氏に遺らしめ、冒頓囲みの一角を開く。高帝出でて馳せんと欲するも、嬰固く徐行し、弩皆満を持して外に向け、卒に脱するを得たり。嬰に細陽の千戸を益食す。復た太僕を以て従ひて胡騎を句注の北に撃ち、大いに之を破る。太僕を以て胡騎を平城の南に撃ち、三たび陳を陥れ、功多しと為し、奪ふ所の邑五百戸を賜ふ。太僕を以て陳豨・黥布の軍を撃ち、陳を陥れ敵を卻け、千戸を益食し、定めて汝陰の六千九百戸に食み、前に食む所を除く。嬰上の初め沛に起ちしより、常に太僕と為り、
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