智囊 / 威克・竇建德・陳星卿
夏主竇建德微時,有劫盜夜入其家,建德知之,立戶下,連殺三盜,餘盜不敢入。呼取其屍,建德曰:「可投繩下係取去。」盜投繩而下,建德乃自係,使盜曳出,捉刀躍起,復殺數盜。由是益知名,以誅盜為戲。
新字:夏主竇建徳微時,有劫盗夜入其家,建徳知之,立戸下,連殺三盗,余盗不敢入。呼取其屍,建徳曰:「可投縄下係取去。」盗投縄而下,建徳乃自係,使盗曳出,捉刀躍起,復殺数盗。由是益知名,以誅盗為戯。
書き下し
夏主の竇建徳、微かなりし時、劫盗の夜に其の家に入る有り。建徳は之を知り、戸の下に立ち、連ねて三盗を殺す。余盗は敢えて入らず。其の屍を呼び取らんとす。建徳曰く、「繩を投げ下して係ぎ取り去るべし」と。盗は繩を投げて下す。建徳は乃ち自ら係ぎ、盗をして曳き出さしめ、刀を捉えて躍り起こり、復た数盗を殺す。是れ由り益ます名を知られ、盗を誅するを以て戯と為す。
現代語訳
夏の王となった竇建徳が、まだ身分の低かったころ、強盗が夜にその家に入ってきた。建徳はそれを知って、戸口の下に立ち、続けて三人の盗賊を殺した。残りの盗賊は入ってこようとしない。盗賊たちは仲間の屍を引き取りたがった。建徳は言った。「縄を投げ下ろして括り、引き取っていくがよい」。盗賊たちは縄を投げ下ろした。建徳はそこで自分の体を縄にくくりつけ、盗賊たちに引き出させ、刀を握って跳ね起き、さらに数人の盗賊を殺した。これによってますます名を知られるようになり、盗賊を討つことを遊びのようにした。
解説
竇建徳は、少人数で多数の盗賊に囲まれながら、戸口という有利な地形に立って一人ずつ倒し、さらに縄を使った奇策で残りの盗賊をおびき寄せました。数で劣っても、地の利と相手の心理を利用すれば勝てるという戦術の例です。経営でも、資源が乏しい側が大手に挑む時には、正面からではなく、相手が油断する形を作ることが有効です。ただし、命を的にした賭けであり、再現性のある方法とは言えません。逸話の胆力よりも、相手の欲望を逆手に取る発想の方が現代の応用になります。
この章句が説くこと
戸の下に立つ縄を投げ下ろす竇建徳地の利奇策胆力
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