智囊 / 威克・黃蓋・況鍾
黃蓋嘗為石城長。石城吏特難檢御,蓋至,為置兩掾,分主諸曹,教曰:「令長不德,徒以武功得官,不諳文吏事。今寇未平,多軍務,一切文書,悉付兩掾,其為檢攝諸曹,糾摘謬誤。若有奸欺者,終不以鞭樸相加!」教下,初皆怖懼恭職,久之,吏以蓋不治文書,頗懈肆。蓋微省之,得兩掾不法各數事,乃悉召諸掾,出數事詰問之,兩掾叩頭謝,蓋曰:「吾業有敕,終不以鞭樸相加,不敢欺也。」竟殺之,諸掾自是股栗,一縣肅清。
新字:黄蓋嘗為石城長。石城吏特難検御,蓋至,為置両掾,分主諸曹,教曰:「令長不徳,徒以武功得官,不諳文吏事。今寇未平,多軍務,一切文書,悉付両掾,其為検摂諸曹,糾摘謬誤。若有奸欺者,終不以鞭樸相加!」教下,初皆怖懼恭職,久之,吏以蓋不治文書,頗懈肆。蓋微省之,得両掾不法各数事,乃悉召諸掾,出数事詰問之,両掾叩頭謝,蓋曰:「吾業有勅,終不以鞭樸相加,不敢欺也。」竟殺之,諸掾自是股栗,一県粛清。
書き下し
黄蓋、嘗て石城の長と為る。石城の吏は特に検御し難し。蓋至り、為に両掾を置き、分かちて諸曹を主らしめ、教えて曰く、「令長は不徳にして、徒だ武功を以て官を得たり。文吏の事に諳んぜず。今寇未だ平らがず、軍務多し。一切の文書は、悉く両掾に付す。其れ為に諸曹を検摂し、謬誤を糾摘せよ。若し奸欺する者有らば、終に鞭樸を以て相い加えず」と。教え下るや、初めは皆な怖懼して職を恭しくす。久しくして、吏は蓋の文書を治めざるを以て、頗る懈肆す。蓋は微かに之を省み、両掾の不法各おの数事を得。乃ち悉く諸掾を召し、数事を出して之を詰問す。両掾叩頭して謝す。蓋曰く、「吾は業に敕有り、終に鞭樸を以て相い加えずと。敢えて欺かざるなり」と。竟に之を殺す。諸掾は自ら股栗し、一県は粛清す。
現代語訳
黄蓋はかつて石城の長官を務めた。石城の役人は特に統制しにくかった。黄蓋は着任すると、二人の属官を置いて、それぞれ各部署を分担して監督させ、こう教えた。「私は徳が足りず、ただ武功で官を得た。文書事務には明るくない。今は賊が平定されておらず、軍務が多い。すべての文書は二人の属官に預ける。各部署を取り締まり、誤りや不正を摘発せよ。もし欺く者があっても、決して鞭では打たない」。この教えが下ると、最初は皆が恐れて、職務に恭しく励んだ。しばらくして、役人たちは黄蓋が文書を見ないのをいいことに、すっかり怠けて勝手をするようになった。黄蓋はひそかに調べ、二人の属官にそれぞれ数件の不正があるのを見つけた。そこで属官たちを全員呼び、不正を挙げて問いただした。二人は頭を地につけて謝った。黄蓋は言った。「私はすでに、決して鞭では打たないと命じてある。約束を破って欺くことはしない」。そしてとうとう二人を殺した。属官たちは皆、足が震え、県内は粛然と正された。
解説
この章句が説くこと
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史記 張釈之馮唐列伝吾独り廉頗・李牧を得て時に吾が将と為さざるか。吾豈に匈奴を憂へんや」と。唐曰く、「主臣。陛下廉頗・李牧を得と雖も、用ふること能はざるなり」と。上怒り、起ちて禁中に入る。良久しくして、唐を召して譲(せ)めて曰く、「公柰何ぞ衆にて我を辱むる。独り間処無からんや」と。唐謝して曰く、「鄙人忌諱を知らず」と。是の時に当たり、匈奴新たに大いに朝那に入り、北地の都尉卬を殺す。上胡寇を以て意と為し、乃ち卒に復た唐に問ひて曰く、「公何を以て吾が廉頗・李牧を用ふること能はざるを知るや」と。唐対へて曰く、「臣聞く、上古の王者の将を遣はすや、跪きて轂を推し、曰く閫(こん)以内は寡人之を制し、閫以外は将軍之を制すと。軍功爵賞は皆外に決し、帰りて之を奏す。此れ虚言に非ざるなり。臣の大父言ふ、李牧、趙の将と為りて辺に居り、軍市の租は皆自ら用ひて士を饗し、賞賜は外に決し、中より擾されずと。委任して成功を責む。故に李牧乃ち其の智能を尽くすを得たり。選車千三百乗、彀騎万三千、百金の士十万を遣はし、是を以て北のかた単于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西のかた彊秦を抑へ、南のかた韓・魏を支ふ。是の時に当たりて、趙幾(ほと)んど霸たらんとす。其の後会(たまたま)趙王遷立つ。其の母は倡なり。王遷立ち、乃ち郭開の讒を用ひ、卒に李牧を誅し、顔聚をして之に代はらしむ。是を以て兵破れ士北(に)げ、秦の禽滅する所と為る。今臣竊かに聞く、魏尚雲中の守と為り、其の軍市の租は尽く以て士卒を饗し、[出]私養の銭もて、五日に一たび牛を椎(う)ち、賓客・軍吏・舎人を饗す。是を以て匈奴遠く避け、雲中の塞に近づかず。虜曾て一たび入る。尚、車騎を率ゐて之を撃ち、殺す所其れ衆し。夫れ士卒は尽く家人の子にして、田中より起ちて軍に従ふ。安くんぞ尺籍・伍符を知らん。終日力戦し、首を斬り虜を捕へ、功を莫府に上るに、一言相応ぜざれば、文吏法を以て之を縄す。其の賞行はれずして吏の法を奉ずるは必ず用ひらる。
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史記 呉王濞列伝呉王濞は、高帝の兄劉仲の子なり。高帝已に天下を定むること七年、劉仲を立てて代王と為す。而して匈奴代を攻む。劉仲堅守する能はず、国を棄てて亡げ、間行して雒陽に走り、自ら天子に帰す。天子骨肉の為の故に、法を致すに忍びず、廃して以て郃陽侯と為す。高帝十一年秋、淮南王英布反し、東のかた荊の地を并せ、其の国の兵を劫かし、西のかた淮を度り、楚を撃つ。高帝自ら将として往きて之を誅す。劉仲の子沛侯濞、年二十、気力有り。騎将を以て従ひて布の軍を蘄の西、会甀に破り、布走る。荊王劉賈布の殺す所と為り、後無し。上呉・会稽の軽悍にして、壮王の以て之を填むる無く、諸子少きを患ひ、乃ち濞を沛に立てて呉王と為し、三郡五十三城に王たらしむ。已に拝して印を受く。高帝濞を召して之を相し、謂ひて曰く、「若の状反相有り」と。心に独り悔ゆるも、業已に拝せり。因りて其の背を拊ちて、告げて曰く、「漢の後五十年、東南に乱るる者有らば、豈に若ならんや。然れども天下の同姓は一家為り。慎みて反する無かれ」と。濞頓首して曰く、「敢へてせず」と。会々孝恵・高后の時、天下初めて定まり、郡国の諸侯各々務めて自ら其の民を拊循す。呉に豫章郡の銅山有り。濞則ち天下の亡命者を招致して盗かに銭を鋳、海水を煮て塩と為す。故を以て賦無く、国用富饒なり。
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老子・第29章将に天下を取りて之を為さんと欲するも、吾れ其の已むを得ざるを見る。天下は神器なり、為すべからざるなり、執るべからざるなり。為す者は之を敗り、執る者は之を失う。故に物は或いは行き或いは随い、或いは歔き或いは吹き、或いは強く或いは羸く、或いは挫け或いは隳る。是を以て聖人は甚を去り、奢を去り、泰を去る。
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『春秋左氏伝』桓公十七年 高渠弥、昭公を弑す十七年春、黃に盟ふ。齊・紀を平らげ、且つ衛の故を謀るなり。邾の儀父と趡に盟ふ。蔑の盟を尋むるなり。夏、齊の師と奚に戰ふ。疆の事なり。是に於て齊人魯の疆を侵す。疆吏來り告ぐ。公曰く、「疆埸の事は、慎みて其の一を守りて、其の虞らざるに備ふ。姑く備ふる所を盡くせ。事至らば戰はん。又何ぞ謁げん」と。蔡の桓侯卒す。蔡人蔡季を陳より召す。秋、蔡季陳より蔡に歸る。蔡人之を嘉すればなり。邾を伐つは、宋の志なり。冬十月朔、日之を食する有り。日を書せざるは、官之を失へばなり。天子に日官有り、諸侯に日禦有り。日官は卿に居りて以て日を底(さだ)む、禮なり。日禦は日を失はず、以て百官に朝に授く。初め、鄭伯將に高渠彌を以て卿と為さんとす。昭公之を惡み、固く諫む。聽かず。昭公立つ。其の己を殺さんことを懼る。辛卯、昭公を弑して、公子亹を立つ。君子昭公を惡む所を知ると謂ふ。公子達曰く、「高伯其れ戮せられんか。惡を複すること已甚し」と。
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説苑・奉使趙王使者を楚に遣わす。方に瑟を鼓して之を遣わし、之を誡めて曰く、「必ず吾が言の如くせよ。」使者曰く、「王の瑟を鼓するや、未だ嘗て此くの如く悲しからざりき。」王曰く、「宮商固より方に調えり。」使者曰く、「調うれば則ち何ぞ其の柱に書さざるか。」王曰く、「天に燥濕有り、絃に緩急有り、宮商の移徙知るべからず、是を以て書さず。」使者曰く、「明君の人を使うや、之に任ずるに事を以てし、制するに辭を以てせず。吉に遇えば則ち之を賀し、凶には則ち之を弔う。今楚と趙と相去ること千有餘里、吉凶憂患、豫め知るべからざること、猶お柱の書すべからざるがごとし。詩に云う、『莘莘たる征夫、每に懷えども及ぶこと靡し。』」
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