智囊 / 得情・宣彥昭・范邰
宣彥昭仕元,為平陽州判官,天大雨,民與軍爭簦,各認己物。彥昭裂而為二,並驅出,卒踵其後。軍忿噪不已,民曰:「汝自失簦,於我何與?」卒以聞,彥昭杖民,令買簦償軍。范邰為濬儀令,二人挾絹於市互爭,令斷之,各分一半去,後遣人密察之,有一喜一慍之色,於是擒喜者。〔馮述評〕李惠斷燕巢事,即此一理所推也。魏雍州廳事有燕爭巢,鬥已累日。刺史李惠令人掩護,試命紀綱斷之,並辭。惠乃使卒以弱竹彈兩燕,既而一去一留。惠笑謂屬吏曰:「此留者,自計為巢功重;彼去者,既經楚痛,理無固心。」群下服其深察。
新字:宣彦昭仕元,為平陽州判官,天大雨,民与軍争簦,各認己物。彦昭裂而為二,並駆出,卒踵其後。軍忿噪不已,民曰:「汝自失簦,於我何与?」卒以聞,彦昭杖民,令買簦償軍。范邰為濬儀令,二人挟絹於市互争,令断之,各分一半去,後遣人密察之,有一喜一慍之色,於是擒喜者。〔馮述評〕李恵断燕巣事,即此一理所推也。魏雍州庁事有燕争巣,鬥已累日。刺史李恵令人掩護,試命紀綱断之,並辞。恵乃使卒以弱竹弾両燕,既而一去一留。恵笑謂属吏曰:「此留者,自計為巣功重;彼去者,既経楚痛,理無固心。」群下服其深察。
書き下し
宣彦昭、元に仕え、平陽州の判官と為る。天大いに雨ふり、民と軍と簦を争い、各おの己が物と認む。彦昭裂きて二と為し、並びに駆り出さしめ、卒に其の後を踵がしむ。軍は忿り噪ぎて已まず。民曰く、「汝自ら簦を失えるなり。我に於いて何ぞ与らんや」と。卒以て聞す。彦昭、民を杖ち、簦を買いて軍に償わしむ。范邰、濬儀の令と為る。二人、絹を挟みて市に互いに争う。令、之を断じ、各おの半ばを分かちて去らしむ。後に人を遣わして密かに之を察せしむるに、一は喜び一は慍る色有り。是に於いて喜ぶ者を擒う。〔馮述評〕李恵の燕の巣を断ずる事、即ち此の一理の推す所なり。魏の雍州の庁事に燕の巣を争う有り、闘うこと已に累日なり。刺史李恵、人をして掩護せしめ、試みに紀綱に命じて之を断ぜしむるに、並びに辞す。恵乃ち卒をして弱竹を以て両燕を弾かしむるに、既にして一は去り一は留まる。恵笑いて属吏に謂いて曰く、「此の留まる者は、自ら巣の功の重きを計る。彼の去る者は、既に楚痛を経て、理として固心無し」と。群下其の深察に服す。
現代語訳
宣彦昭は元に仕え、平陽州の判官となった。大雨の日に、民と兵士が傘を取り合い、どちらも自分の物だと主張した。彦昭は傘を二つに裂き、二人とも追い出して、兵卒にその後をつけさせた。兵士は怒って騒ぎ続けた。民は言った。「あなたが自分で傘をなくしたのだ。私に何の関わりがあるか」。兵卒がこれを報告した。彦昭は民を杖で打ち、傘を買って兵士に弁償させた。范邰は濬儀の県令となった。二人が絹を抱えて市場で互いに争った。県令はこれを裁き、それぞれ半分ずつ持たせて去らせた。後に人を遣わしてひそかに様子を見させると、一人は喜び一人は怒っている様子だった。そこで喜んでいる者を捕らえた。〔馮夢龍の評〕李恵が燕の巣を裁いた件も、この同じ道理を推し広げたものだ。魏の雍州の役所の庁舎で燕が巣を争い、闘いはすでに何日にも及んだ。刺史の李恵は人に巣を覆い守らせ、試しに側近に命じて裁かせたが、みな辞退した。李恵はそこで兵に細い竹で二羽の燕をはじかせると、やがて一羽は去り、一羽は留まった。李恵は笑って属官に言った。「この留まった者は、自分が巣を作った功が重いと考えている。あの去った者は、痛い目にあって、道理として固執する心がない」。部下たちはその深い洞察に感服した。
解説
この章句が説くこと
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