智囊 / 集哲・李文姬
李固既策罷,知不免禍,乃遣二子歸鄉里。時燮年十三,姊文姬為同郡趙伯英妻,賢而有智。見二兄歸,具知事本,默然獨悲,曰:「李氏滅矣,自太公以來,積德累仁,何以遇此?」密與二兄謀,豫藏匿燮,托言還京師,人咸信之。有頃難作,下郡收固三子,二兄受害,文姬乃告父門生王成曰:「君執義先公,有古人之節,今委君以六尺之孤,李氏存滅,其在君矣。」成感其義,乃將燮乘江東下,入徐州界內,令變姓名為酒家傭,而成賣卜於市。名為異居,陰相往來,燮從受學。酒家異之,意非常人,以女妻燮。燮專精經學。十餘年間,梁冀既誅,為災眚屢見,明年,史官上言:「宜有赦令,又當存錄大臣冤死者子孫。」於是大赦天下,並求固後嗣。燮乃以本末告酒家,酒家具車,重厚遣之,皆不受。遂還鄉里,姊弟相見,悲感旁人。既而戒燮曰:「先公正直,為漢忠臣,而遇朝廷傾亂,梁冀肆虐,令吾宗祀血食將絕。今弟幸而得濟,豈非天耶?宜杜絕眾人,勿妄往來,慎無以一言加於梁氏,加梁氏則連主上,禍重至矣,唯引咎而已。」
新字:李固既策罷,知不免禍,乃遣二子帰郷里。時燮年十三,姊文姫為同郡趙伯英妻,賢而有智。見二兄帰,具知事本,黙然独悲,曰:「李氏滅矣,自太公以来,積徳累仁,何以遇此?」密与二兄謀,予蔵匿燮,托言還京師,人咸信之。有頃難作,下郡収固三子,二兄受害,文姫乃告父門生王成曰:「君執義先公,有古人之節,今委君以六尺之孤,李氏存滅,其在君矣。」成感其義,乃将燮乗江東下,入徐州界内,令変姓名為酒家傭,而成売卜於市。名為異居,陰相往来,燮従受学。酒家異之,意非常人,以女妻燮。燮専精経学。十余年間,梁冀既誅,為災眚屡見,明年,史官上言:「宜有赦令,又当存録大臣冤死者子孫。」於是大赦天下,並求固後嗣。燮乃以本末告酒家,酒家具車,重厚遣之,皆不受。遂還郷里,姊弟相見,悲感旁人。既而戒燮曰:「先公正直,為漢忠臣,而遇朝廷傾乱,梁冀肆虐,令吾宗祀血食将絶。今弟幸而得済,豈非天耶?宜杜絶衆人,勿妄往来,慎無以一言加於梁氏,加梁氏則連主上,禍重至矣,唯引咎而已。」
書き下し
李固がすでに策免されると、禍を免れぬことを知り、二子を郷里に帰らせた。時に燮は十三歳、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻で、賢くて智があった。二兄の帰るのを見て、ことの本末を知り、黙然として独り悲しみ、言った、「李氏は滅びる。太公以来、徳を積み仁を累ねてきたのに、どうしてこのようなことに遭うのか。」密かに二兄と謀り、あらかじめ燮を隠し、京師に還ると托言したので、人は皆これを信じた。ほどなく難が起こり、郡に下って固の三子を捕らえ、二兄は害を受けた。文姫は父の門生王成に告げた、「君は義を執って先公に仕え、古人の節がある。いま六尺の孤を君に託します。李氏の存滅は君にかかっています。」成はその義に感じ、燮を連れて江を下り、徐州の界内に入り、姓名を変えて酒屋の雇人とさせ、自分は市で卜を売った。名は異居としながら、陰で往来し、燮は学を受けた。酒屋の主はこれを怪しみ、尋常の人ではないと思い、娘を燮に妻わせた。燮は経学に専心した。十余年のあいだに梁冀が誅され、災異がしばしば現れ、翌年、史官が上言した、「赦令を出すべきで、また冤死した大臣の子孫を存録すべきです。」ここに天下に大赦し、あわせて固の後嗣を求めた。燮は本末を酒屋の主に告げ、主は車を整えて厚く贈ったが、皆受けなかった。郷里に還り、姉弟は相見えて、悲しみは傍らの人を感動させた。やがて燮を戒めて言った、「先公は正直で、漢の忠臣であったのに、朝廷の傾乱に遭い、梁冀が虐を恣にして、我が宗祀の血食を絶やそうとした。いま弟が幸いに生き延びたのは、天ではないか。衆人との交わりを絶ち、みだりに往来してはならない。慎んで梁氏に一言も加えてはならない。梁氏に加えれば主上に連なり、禍が重ねて至る。ただ咎を引き受けるのみである。」
現代語訳
李固が罷免されると、禍を免れないと悟り、二人の子を郷里に帰らせた。このとき末子の燮は十三歳で、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻となっていたが、賢く智恵があった。二人の兄が帰ってきたのを見て事情を知ると、黙って一人悲しみ、言った。「李氏は滅びてしまう。祖先の太公以来、徳と仁を積み重ねてきたのに、どうしてこんな目に遭うのか。」文姫は密かに二人の兄と相談し、あらかじめ燮を隠して、都へ戻ったと言いふらしたので、人々はみなそれを信じた。まもなく難が起こり、郡の役人が李固の三人の子を捕らえに来て、二人の兄は殺された。文姫は父の門生の王成に告げた。「あなたは義を守って亡き父に仕え、古人のような節操があります。いま幼い孤児をあなたに託します。李氏が存続するか滅びるかは、あなたにかかっています。」王成はその義に感じ、燮を連れて長江を東に下り、徐州の領内に入り、燮に姓名を変えさせて酒屋の雇い人とし、自分は市場で占いをして暮らした。表向きは別々に暮らしながら、陰で行き来し、燮は王成から学問を受けた。酒屋の主人は燮を怪しみ、ただ者ではないと思って、娘を燮の妻にした。燮は経学に専念した。十年余りのうちに梁冀が誅殺され、天変地異がたびたび起こり、翌年、史官が上言した。「大赦を行い、冤罪で死んだ大臣の子孫を探して録用すべきです。」そこで天下に大赦が行われ、李固の後継ぎが探された。燮は事の次第を酒屋の主人に告げ、主人は車を用意して手厚く贈ろうとしたが、燮はすべて受けなかった。郷里に帰り、姉弟が再会すると、悲しみは傍らの人まで感動させた。その後、文姫は燮を戒めて言った。「亡き父は正直で漢の忠臣でしたが、朝廷が乱れ、梁冀が暴虐をふるい、わが家の祭祀が絶えようとしました。いま弟が幸いに助かったのは、天の助けではないでしょうか。多くの人との交際を絶ち、みだりに行き来してはなりません。決して梁氏について一言も口にしてはいけません。梁氏を責めれば主上に連なり、禍がまた重なります。ただ自分の咎として引き受けるだけにしなさい。」
解説
この章句が説くこと
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『智囊』序・智囊自敘或ひと又た曰く、舜・孔の事は則ち誠に然り。然れども『智囊』なる者は、固より大夫錯の膏もて漢市に焚かれし所以なり。子は何を取らんや。馮子曰く、不、不。錯は智に死せず、愚に死せり。其の坐して兵を談ずるに方たりては、人主色を動かせしも、七国の事起こるに迨びて、乃ち天子をして将たらしめ、己は居守せんと欲す。一たび不智を為せば、讒興りて身滅ぶ。然りと雖も、錯は身を衛るに愚にして、国を籌るに智なり。故に身死して数千年、人猶お之を痛み、名臣に列す。輓鬥宵の流は、身を衛るに偏えに智にして、国を籌るに偏えに愚なり。此を以て彼に較ぶれば、誰か妍にして誰か媸なるか。且つ『智囊』の名、子は其の一を知りて、二を未だ知らざるなり。錯に前んずる者に樗里子有り。錯に後るる者に魯匡・支謙・杜預・桓範・王倹有り。其の皇明に在りては、楊文襄公並びに此の号を擅にす。数君子は、跡は一軌ならざれども、亦た多く功を成し勲を豎て、身は栄え道は泰かなる者有り。子は其の利を捨てて其の害を懲らす。是れ猶お一人の溺るるを睹て、舟楫の用を廃するがごとし。夫れ亦た愈いよ不智なり。或ひと又た曰く、子の『智囊』を述ぶるは、人をして智を学ばしめんとするなり。智は性より生ずるか、紙上に由るか。馮子曰く、吾れ向に固より之を言えり。智は猶お水のごとし。然して地中に蔵するは性なり。鑿ちて之を出だすは学なり。井澗の用は、江河と参す。吾れは夫の人性の土石に錮せらるるを憂え、紙上の言を以て之が畚鍤と為す。応世に廖ゆること有るに庶からんのみ。
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『智囊』靈變・吳郡卒蘇峻の乱に、諸庾は逃げ散る。庾冰は時に呉郡たり、単身にして奔り亡る。吏民は皆去り、ただ郡卒のみ独り小船を以て冰を載せて銭塘の口を出で、蘧蒢を以てこれを覆う。時に峻は賞募して冰の属を覓め、所在の搜括は甚だ急なり。卒は船を市の渚に泊め、酒を飲み酔いて還り、棹を舞わして船に向かいて曰く、「何れの処にか呉郡を覓むる。この中に便ち是れなり」と。冰は大いに驚き怖るるも、敢えて動かず。監司は船小さく装い狭きを見て、卒の狂酔と謂い、都べて復た疑わず。自ら送りて浙江を過ぎ、山陰の魏家に寄せ、免るるを得たり。後に事平らぐや、冰は卒に報いんと欲し、その願う所を問う。卒曰く、「廁下より出で、名器を願わず。少くして執鞭に苦しみ、恒に快く酒を飲むを得ざるを患う。酒をして余年に足らしめば、畢わらん」と。復た須うる所無し。冰は為に大舎を起こし、奴婢を市い、門内に百斛の酒有らしめて、その身を終えさせたり。時に謂う、この卒は唯だ智有るのみならず、且つ亦た生に達すと。
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『智囊』通簡・廉希憲廉希憲は京兆たり。四川宣撫使渾都海反し、西川の将紐鄰奧、魯官は兵を挙げて之に応ぜんとす。蒙古八春は之を獲、其の党五十余人を乾州の獄に係ぎ、二人を京兆に送り、並びに殺さんことを請う。希憲は僚佐に謂いて曰く、「渾都海は勢に乗じて東に来る能わず、他の慮い無きを保す。今、衆志は未だ一ならず、猶お反側を懐く。彼若し其の将校の執囚せらるるを見ば、或いは別に心を生じ、害を為すこと細からず。其の死を懼るるに因りて、並びに皆な寛釈すべし。就ち此の軍の餘丁を発して八春に隸せしむるは、上策なり」と。初め八春は既に諸校を執らえしかば、其の軍は疑懼し、駭乱して四出す。諸校の全きを獲たるを知るに及び、紐鄰奧、魯官は釈さるるを得て、大いに喜びて望みに過ぎ、人人感悦す。八春は果たして精騎数千を得て、将に与に俱に西せんとす。〔馮述評〕八春に隷せしむる所以は、逆め八春の力能く之を制するを知ればなり。漫然として虎を縦ちて患を遺すに非ず。八春は能く之を死にせしめ、希憲は能く之を生かし、畏と感と交々集まり、我が用を為さざるを患えず。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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『長短経』任長管仲曰く「昇降揖譲、進退閑習なるは、臣は隰朋に如かず。請う、立てて以て大行と為せ。土を闢き粟を聚め、地の利を尽くすは、臣は甯戚に如かず。請う、立てて以て司田と為せ。平原広牧、車は轍を結ばず、士は踵を旋らさず、之を鼓して三軍の士、死を視ること帰するが如きは、臣は王子城父に如かず。請う、立てて以て大司馬と為せ。獄を決し中を折り、不辜を殺さず、不罪を誣いざるは、臣は賓胥無に如かず。請う、立てて以て大理と為せ。君の顔色を犯し、諫を進めて必ず忠、死亡を避けず、富貴に撓まざるは、臣は東郭牙に如かず。請う、立てて以て大諫と為せ。君若し国を治め兵を強くせんと欲せば、則ち五子なる者存す。若し覇王たらんと欲せば、則ち夷吾此に在り」と。
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『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
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