智囊 / 序・智囊自敘
或又曰:舜、孔之事則誠然矣。然而「智囊」者,固大夫錯所以膏焚於漢市也,子何取焉?馮子曰:不不!錯不死於智,死於愚,方其坐而談兵,人主動色,迨七國事起,乃欲使天子將而已居守,一為不智,讒興身滅。雖然,錯愚於衛身,而智於籌國,故身死數千年,人猶痛之,列於名臣。輓鬥宵之流,衛身偏智,籌國偏愚,以此較彼,誰妍誰媸?且「智囊」之名,子知其一,未知二也。前乎錯,有樗里子焉;後乎錯,有魯匡、支謙、杜預、桓范、王儉焉;其在皇明,楊文襄公並擅此號。數君子者,跡不一軌,亦多有成功豎勳、身榮道泰。子捨其利而懲其害,是猶睹一人之溺,而廢舟揖之用,夫亦愈不智矣!或又曰:子之述《智囊》,將令人學智也。智由性生乎,由紙上乎?馮子曰:吾向者固言之:智猶水,然藏於地中者,性;鑿而出之者,學。井澗之用,與江河參。吾憂夫人性之錮於土石,而以紙上言為之畚鍤,庶於應世有廖爾。
新字:或又曰:舜、孔之事則誠然矣。然而「智嚢」者,固大夫錯所以膏焚於漢市也,子何取焉?馮子曰:不不!錯不死於智,死於愚,方其坐而談兵,人主動色,迨七国事起,乃欲使天子将而已居守,一為不智,讒興身滅。雖然,錯愚於衛身,而智於籌国,故身死数千年,人猶痛之,列於名臣。輓鬥宵之流,衛身偏智,籌国偏愚,以此較彼,誰妍誰媸?且「智嚢」之名,子知其一,未知二也。前乎錯,有樗里子焉;後乎錯,有魯匡、支謙、杜預、桓范、王倹焉;其在皇明,楊文襄公並擅此号。数君子者,跡不一軌,亦多有成功豎勲、身栄道泰。子捨其利而懲其害,是猶睹一人之溺,而廃舟揖之用,夫亦愈不智矣!或又曰:子之述《智嚢》,将令人学智也。智由性生乎,由紙上乎?馮子曰:吾向者固言之:智猶水,然蔵於地中者,性;鑿而出之者,学。井澗之用,与江河参。吾憂夫人性之錮於土石,而以紙上言為之畚鍤,庶於応世有廖爾。
書き下し
或ひと又た曰く、舜・孔の事は則ち誠に然り。然れども『智囊』なる者は、固より大夫錯の膏もて漢市に焚かれし所以なり。子は何を取らんや。馮子曰く、不、不。錯は智に死せず、愚に死せり。其の坐して兵を談ずるに方たりては、人主色を動かせしも、七国の事起こるに迨びて、乃ち天子をして将たらしめ、己は居守せんと欲す。一たび不智を為せば、讒興りて身滅ぶ。然りと雖も、錯は身を衛るに愚にして、国を籌るに智なり。故に身死して数千年、人猶お之を痛み、名臣に列す。輓鬥宵の流は、身を衛るに偏えに智にして、国を籌るに偏えに愚なり。此を以て彼に較ぶれば、誰か妍にして誰か媸なるか。且つ『智囊』の名、子は其の一を知りて、二を未だ知らざるなり。錯に前んずる者に樗里子有り。錯に後るる者に魯匡・支謙・杜預・桓範・王倹有り。其の皇明に在りては、楊文襄公並びに此の号を擅にす。数君子は、跡は一軌ならざれども、亦た多く功を成し勲を豎て、身は栄え道は泰かなる者有り。子は其の利を捨てて其の害を懲らす。是れ猶お一人の溺るるを睹て、舟楫の用を廃するがごとし。夫れ亦た愈いよ不智なり。或ひと又た曰く、子の『智囊』を述ぶるは、人をして智を学ばしめんとするなり。智は性より生ずるか、紙上に由るか。馮子曰く、吾れ向に固より之を言えり。智は猶お水のごとし。然して地中に蔵するは性なり。鑿ちて之を出だすは学なり。井澗の用は、江河と参す。吾れは夫の人性の土石に錮せらるるを憂え、紙上の言を以て之が畚鍤と為す。応世に廖ゆること有るに庶からんのみ。
現代語訳
ある人がまた言う。舜や孔子のことはなるほどその通りだ。しかし『智囊』という名は、大夫の晁錯が市で処刑された原因となったものではないか。あなたはなぜそれを選ぶのか。馮子は言った。いや、そうではない。晁錯は智のために死んだのではなく、愚かさのために死んだのだ。彼が座して兵を論じていたとき、君主も顔色を改めて聞き入った。ところが七国の乱が起こると、天子に自ら将として出陣させ、自分は留守を守ろうとした。一度でも不智をなせば、讒言が起こって身は滅ぶ。そうではあっても、晁錯は身を守ることには愚かだったが、国をはかることには智があった。だから死んで数千年たっても、人々は彼を惜しみ、名臣に数えている。輓鬥宵のような連中は、身を守ることにだけ智があり、国をはかることにはまったく愚かだった。彼らと比べれば、どちらが美しく、どちらが醜いか明らかだ。そのうえ『智囊』という名は、あなたは一つしか知らず、二つめを知らない。晁錯より前には樗里子がおり、後には魯匡、支謙、杜預、桓范、王倹がいる。明朝では楊文襄公が同じ称号を一身に受けた。これらの君子たちは歩んだ道は同じでないが、功を立て勲を挙げ、身は栄え道は安らかだった者も多い。あなたはその利を捨て、害ばかりを戒めようとする。それは一人が溺れたのを見て、舟や櫂の用を廃するようなもので、いっそう不智である。またある人が言う。あなたが『智囊』を述べるのは、人に智を学ばせようとするのだろう。智は天性から生まれるのか、紙の上から得られるのか。馮子は言った。私はすでに述べた。智は水のようなものだ。地中に蔵されているのが天性であり、掘ってそれを出すのが学びである。井戸や谷川の用は、大河と並ぶ。私は人の天性が土や石に閉ざされることを憂え、紙の上の言葉をもっこやすきとしてやりたいのだ。世に応ずるのにいくらか役立つことを願うばかりである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『智囊』集哲・李文姬李固がすでに策免されると、禍を免れぬことを知り、二子を郷里に帰らせた。時に燮は十三歳、姉の文姫は同郡の趙伯英の妻で、賢くて智があった。二兄の帰るのを見て、ことの本末を知り、黙然として独り悲しみ、言った、「李氏は滅びる。太公以来、徳を積み仁を累ねてきたのに、どうしてこのようなことに遭うのか。」密かに二兄と謀り、あらかじめ燮を隠し、京師に還ると托言したので、人は皆これを信じた。ほどなく難が起こり、郡に下って固の三子を捕らえ、二兄は害を受けた。文姫は父の門生王成に告げた、「君は義を執って先公に仕え、古人の節がある。いま六尺の孤を君に託します。李氏の存滅は君にかかっています。」成はその義に感じ、燮を連れて江を下り、徐州の界内に入り、姓名を変えて酒屋の雇人とさせ、自分は市で卜を売った。名は異居としながら、陰で往来し、燮は学を受けた。酒屋の主はこれを怪しみ、尋常の人ではないと思い、娘を燮に妻わせた。燮は経学に専心した。十余年のあいだに梁冀が誅され、災異がしばしば現れ、翌年、史官が上言した、「赦令を出すべきで、また冤死した大臣の子孫を存録すべきです。」ここに天下に大赦し、あわせて固の後嗣を求めた。燮は本末を酒屋の主に告げ、主は車を整えて厚く贈ったが、皆受けなかった。郷里に還り、姉弟は相見えて、悲しみは傍らの人を感動させた。やがて燮を戒めて言った、「先公は正直で、漢の忠臣であったのに、朝廷の傾乱に遭い、梁冀が虐を恣にして、我が宗祀の血食を絶やそうとした。いま弟が幸いに生き延びたのは、天ではないか。衆人との交わりを絶ち、みだりに往来してはならない。慎んで梁氏に一言も加えてはならない。梁氏に加えれば主上に連なり、禍が重ねて至る。ただ咎を引き受けるのみである。」
-
『智囊』靈變・吳郡卒蘇峻の乱に、諸庾は逃げ散る。庾冰は時に呉郡たり、単身にして奔り亡る。吏民は皆去り、ただ郡卒のみ独り小船を以て冰を載せて銭塘の口を出で、蘧蒢を以てこれを覆う。時に峻は賞募して冰の属を覓め、所在の搜括は甚だ急なり。卒は船を市の渚に泊め、酒を飲み酔いて還り、棹を舞わして船に向かいて曰く、「何れの処にか呉郡を覓むる。この中に便ち是れなり」と。冰は大いに驚き怖るるも、敢えて動かず。監司は船小さく装い狭きを見て、卒の狂酔と謂い、都べて復た疑わず。自ら送りて浙江を過ぎ、山陰の魏家に寄せ、免るるを得たり。後に事平らぐや、冰は卒に報いんと欲し、その願う所を問う。卒曰く、「廁下より出で、名器を願わず。少くして執鞭に苦しみ、恒に快く酒を飲むを得ざるを患う。酒をして余年に足らしめば、畢わらん」と。復た須うる所無し。冰は為に大舎を起こし、奴婢を市い、門内に百斛の酒有らしめて、その身を終えさせたり。時に謂う、この卒は唯だ智有るのみならず、且つ亦た生に達すと。
-
『智囊』通簡・廉希憲廉希憲は京兆たり。四川宣撫使渾都海反し、西川の将紐鄰奧、魯官は兵を挙げて之に応ぜんとす。蒙古八春は之を獲、其の党五十余人を乾州の獄に係ぎ、二人を京兆に送り、並びに殺さんことを請う。希憲は僚佐に謂いて曰く、「渾都海は勢に乗じて東に来る能わず、他の慮い無きを保す。今、衆志は未だ一ならず、猶お反側を懐く。彼若し其の将校の執囚せらるるを見ば、或いは別に心を生じ、害を為すこと細からず。其の死を懼るるに因りて、並びに皆な寛釈すべし。就ち此の軍の餘丁を発して八春に隸せしむるは、上策なり」と。初め八春は既に諸校を執らえしかば、其の軍は疑懼し、駭乱して四出す。諸校の全きを獲たるを知るに及び、紐鄰奧、魯官は釈さるるを得て、大いに喜びて望みに過ぎ、人人感悦す。八春は果たして精騎数千を得て、将に与に俱に西せんとす。〔馮述評〕八春に隷せしむる所以は、逆め八春の力能く之を制するを知ればなり。漫然として虎を縦ちて患を遺すに非ず。八春は能く之を死にせしめ、希憲は能く之を生かし、畏と感と交々集まり、我が用を為さざるを患えず。
-
『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
-
史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
-
史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る