智囊 / 經務・張仁願・餘玠
嘉靖中,大同巡撫張文錦議於鎮城北九十里築五堡,徙鎮卒二千五百家往戍之,堡五百家,為大同藩籬,此亦百世之利也。然五堡孤懸幾百里,戍卒憚虜不願往。必也興屯田、葺庐舍,使民見可趨之利,而又置訓練之將,嚴互援之條,使武備飭而有恃無恐,民誰不欣然而趨之?乃不察機宜,而徒用峻法以驅民於死地,所任賈鑒者,又不能體國奉公,以犯眾怒,遂致殺身辱國,賴蔡天祐相機撫定,僅而無恙。欲建功任事者,先在體悉人情哉!
新字:嘉靖中,大同巡撫張文錦議於鎮城北九十里築五堡,徙鎮卒二千五百家往戍之,堡五百家,為大同藩籬,此亦百世之利也。然五堡孤懸幾百里,戍卒憚虜不願往。必也興屯田、葺庐舎,使民見可趨之利,而又置訓練之将,厳互援之条,使武備飭而有恃無恐,民誰不欣然而趨之?乃不察機宜,而徒用峻法以駆民於死地,所任賈鑒者,又不能体国奉公,以犯衆怒,遂致殺身辱国,頼蔡天祐相機撫定,僅而無恙。欲建功任事者,先在体悉人情哉!
書き下し
嘉靖中、大同巡撫の張文錦は議して鎮城の北九十里に五堡を築き、鎮卒二千五百家を徙して往きて之を戍らしめ、堡ごとに五百家、大同の藩籬と為さんとす。此れ亦た百世の利なり。然れども五堡は孤り懸かること幾ど百里、戍卒は虜を憚りて往くを願わず。必ずや屯田を興し、廬舎を葺き、民をして趨く可きの利を見せしめ、而して又た訓練の将を置き、互援の条を厳にし、武備をして飭いて恃む有りて恐れ無からしめば、民は誰か欣然として趨かざらんや。乃ち機宜を察せずして、徒らに峻法を用いて民を死地に駆り、任ずる所の賈鑑なる者は、又た国に体して公に奉ずる能わず、以て衆怒を犯し、遂に身を殺し国を辱むるに致り、蔡天祐の機に相いて撫定するに頼りて、僅かにして恙無し。功を建て事に任ぜんと欲する者は、先ず人情を体悉するに在るかな。
現代語訳
嘉靖年間、大同巡撫の張文錦は、鎮城の北九十里に五つの堡を築き、鎮の兵二千五百戸を移してそこを守らせ、一堡に五百戸、大同の防壁にしようと提案した。これは百世にわたる利益でもあった。しかし五つの堡は百里近くも孤立し、守備兵は敵を恐れて行くことを望まなかった。必ず屯田を興し、家屋を整え、民に赴くだけの利益が見えるようにし、さらに訓練の将を置き、互いに援助する規則を厳しくして、武備が整い頼りにでき恐れがないようにすれば、民は誰が喜んで赴かないことがあろうか。ところが機宜を察せず、いたずらに厳しい法で民を死地へ追いやり、任じた賈鑑という者もまた国を思い公に尽くすことができず、衆怒を買い、とうとう身を殺し国を辱める事態に至り、蔡天祐が機に応じて鎮撫してくれたおかげで、辛うじて無事で済んだ。功を立て事に当たろうとする者は、まず人情をよく汲み取ることが大切である。
解説
この章句が説くこと
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