智囊 / 經務・徐階
〔馮述評〕漢法之善,民即兵,守令即將,故郡國自能制寇。唐之府兵,猶有井田之遺法,自張說變為弓廣騎,而兵農始分,流為藩鎮,有將校而無守令矣。迄宋以來,無事則專責守令,而將校不講韜鈐之術,有事則專責將校,而守令不參帷幄之籌。是戰與守兩俱虛也,徐文貞此議,深究季世塌冗之弊。階又念虜移庭牧宣、大,與虜雜居,士卒不得耕種,米麥每石值至中金三兩,而所給月糧僅七鐶,米菽且不繼。時畿內二麥熟,石止直四鐶,可及時收買數十萬石。石費五鐶,可出居庸,抵宣府,費八鐶可,可出紫荊,抵大同。大約合計之,費止金一兩,而士卒可飽一月食,其地米麥,當亦漸平。上疏行之。
新字:〔馮述評〕漢法之善,民即兵,守令即将,故郡国自能制寇。唐之府兵,猶有井田之遺法,自張説変為弓広騎,而兵農始分,流為藩鎮,有将校而無守令矣。迄宋以来,無事則専責守令,而将校不講韜鈐之術,有事則専責将校,而守令不参帷幄之籌。是戦与守両倶虚也,徐文貞此議,深究季世塌冗之弊。階又念虜移庭牧宣、大,与虜雑居,士卒不得耕種,米麦毎石値至中金三両,而所給月糧僅七鐶,米菽且不継。時畿内二麦熟,石止直四鐶,可及時収買数十万石。石費五鐶,可出居庸,抵宣府,費八鐶可,可出紫荊,抵大同。大約合計之,費止金一両,而士卒可飽一月食,其地米麦,当亦漸平。上疏行之。
書き下し
〔馮述評〕漢の法の善きは、民は即ち兵、守令は即ち将、故に郡国は自ら能く寇を制す。唐の府兵は、猶お井田の遺法有り、張説の弓広騎に変じてより、兵農始めて分かれ、流れて藩鎮と為り、将校有りて守令無し。宋より以来に迄るまで、無事なれば則ち専ら守令に責め、而るに将校は韜鈐の術を講ぜず、有事なれば則ち専ら将校に責め、而るに守令は帷幄の籌に参ぜず。是れ戦と守と両つながら倶に虚しきなり。徐文貞の此の議は、深く季世の塌冗の弊を究む。階は又た虜の庭を宣、大に移して牧するを念い、虜と雑居し、士卒は耕種するを得ず、米麦は每石の値、中金三両に至り、而るに給する所の月糧は僅かに七鐶、米菽すら且つ継がず。時に畿内の二麦熟し、石の直は四鐶に止まり、時に及びて数十万石を収買す可し。石ごとに費五鐶にして居庸を出で、宣府に抵る可く、費八鐶にして紫荊を出で、大同に抵る可し。大約して之を合計するに、費は金一両に止まり、而して士卒は一月の食に飽く可く、其の地の米麦も、当に亦た漸く平らぐべし。上疏して之を行う。
現代語訳
〔馮夢龍の評〕漢の制度が優れていたのは、民がそのまま兵であり、守令がそのまま将であったので、郡や国が自力で敵を抑えられたことにある。唐の府兵制には、なお井田制の名残があったが、張説が募兵制の弓騎に改めてから、兵と農がはじめて分かれ、やがて藩鎮となって、将校はいても守令はいなくなった。宋以降は、平時にはもっぱら守令に責めを負わせるのに、将校は兵法を学ばず、有事にはもっぱら将校に責めを負わせるのに、守令は軍の策謀に関与しない。これでは戦いも守りも、どちらも中身が空になる。徐文貞(徐階)のこの議論は、末世のだらけた冗長の弊害を深く突いている。階はまた、敵が牧場を宣府や大同に移し、敵と雑居する形になって、兵士が耕作できず、米や麦が一石で中金三両もするのに、支給される月糧はわずか七鐶で、米や豆さえ続かないことを案じた。ちょうど畿内の二種の麦が実り、一石の値は四鐶にすぎず、この時に数十万石を買い入れることができた。一石あたり五鐶の運賃で居庸関を出て宣府に着き、八鐶で紫荊関を出て大同に着く。おおよそ合計して、費用は金一両にとどまり、それで兵士は一か月分の食を十分得られ、その土地の米や麦の値も次第に落ち着くはずだ。そこで上疏して実行した。
解説
この章句が説くこと
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『新論』守禦所謂資糧を峙ふとは何ぞや。凡そ軍の需むる所、之を府庫に貯ふる者は、以て守城の用に備ふべくして、戦陣無窮の需を待つに足らず。之を市廛に資る者は、以て平居演習の用に供すべくして、一旦不虞の変に応ずるに足らず。故に硝黄・膠漆・皮革・枲麻、凡そ水土の産する所は、宜しく諸国をして多く之を生ぜしむべくして、之を遠境に仰ぐを容れざるなり。甲冑・干鹵、刀剣・槍槊、弓矢・銃礮、凡そ人工の作る所は、宜しく間暇に及びて多く之を繕ふべし。要は愈用ゐて愈竭きざるに在るなり。
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『甲陽軍鑑』品第四十三右之三人談合して、西は美濃岩村·同かんの大寺·三河野田足助·関東相摸·武蔵境·新田足利境·越後境·飛弾·越中·椎名が居舘迄通り筋に、ぬかわら出し置き、是れは御分国にて百貫の高に付、糠二十俵·藁二十把出させ、是れを置きて道通り町人·百姓に十分一をくれて、やすくうらする故、度々の陣にも諸侍糠·藁にことかく事なし、殊に糠·藁うつたる代物をば本の百姓へ返へすなり、上意なれ共如件、おしばかるは是れ以て信玄公御自利能人を召つかひ給ふ故なり一信虎公の御代には、
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史記 酈生陸賈列伝之に謝す。酈生因りて六国従横の時を言ふ。沛公喜び、酈生に食を賜ひ、問ひて曰く、「計将に安くにか出でん」と。酈生曰く、「足下糾合の衆を起こし、散乱の兵を収むるも、万人に満たず。以て径ちに彊秦に入らんと欲す、此れ所謂虎口を探る者なり。夫れ陳留は天下の衝、四通五達の郊なり。今其の城又多く粟を積む。臣其の令に善し、請ふ之に使ひして、足下に下らしめん。即し聴かずんば、足下兵を挙げて之を攻めよ、臣内応と為らん」と。是に於て酈生を遣はして行かしめ、沛公兵を引きて之に随ひ、遂に陳留を下す。酈食其を号して広野君と為す。酈生其の弟酈商を言ひ、数千人を将ゐて沛公に従ひ西南に地を略せしむ。酈生常に説客と為り、諸侯に馳使す。漢の三年秋、項羽漢を撃ち、滎陽を抜く。漢兵遁れて鞏・洛を保つ。楚人淮陰侯の趙を破り、彭越の数(しばしば)梁の地に反するを聞き、則ち兵を分かちて之を救ふ。淮陰方に東して斉を撃ち、漢王数滎陽・成皋に困しみ、成皋以東を捐てて、鞏・洛に屯して以て楚を拒がんと計欲す。酈生因りて曰く、
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