智囊 / 經務・諸葛亮・陶侃
備依劉表,嘗憂兵寡不足以待曹公,諸葛亮進曰:「荊州非少人也,而著籍者寡。平居發調,則民心不悅,可語劉荊州,令凡有游戶,皆使自實,因錄以益眾可也。」備從其計,其眾遂強。陶侃性儉厲,勤於事。作荊州時,敕船官悉錄鋸木屑,不限多少。咸不解此意,後正會,值積雪始晴,廳事前除雪後猶濕,於是悉用木屑覆之,都無所妨。官用竹,皆令錄厚頭,積之如山。後桓宣武伐蜀,裝船悉以作釘。又嘗發所在竹篙,有一官長,連根取之,仍當足,公即超兩階用之。
新字:備依劉表,嘗憂兵寡不足以待曹公,諸葛亮進曰:「荊州非少人也,而著籍者寡。平居発調,則民心不悦,可語劉荊州,令凡有游戸,皆使自実,因録以益衆可也。」備従其計,其衆遂強。陶侃性倹厲,勤於事。作荊州時,勅船官悉録鋸木屑,不限多少。咸不解此意,後正会,値積雪始晴,庁事前除雪後猶湿,於是悉用木屑覆之,都無所妨。官用竹,皆令録厚頭,積之如山。後桓宣武伐蜀,装船悉以作釘。又嘗発所在竹篙,有一官長,連根取之,仍当足,公即超両階用之。
書き下し
備、劉表に依るや、嘗て兵寡くして以て曹公を待つに足らざるを憂う。諸葛亮進みて曰く、「荊州は人少なきにあらざるなり。而るに籍に著く者寡し。平居に調を発すれば、則ち民心悦ばず。劉荊州に語り、凡そ游戸あれば、皆な自ら実せしめ、因りて録して以て衆を益すべし」と。備、其の計に従い、其の衆は遂に強まる。陶侃は性、倹厲にして、事に勤む。荊州に作たりし時、船官に勅して悉く鋸木屑を録せしめ、多少を限らず。咸な此の意を解せず。後に正会に、積雪始めて晴れるに値い、庁事の前は雪を除きて後も猶お湿る。是に於いて悉く木屑を用いて之を覆い、都て妨げ無し。官は竹を用うるに、皆な厚頭を録せしむ。之を積むこと山の如し。後に桓宣武の蜀を伐つに、装船は悉く以て釘を作る。又た嘗て所在の竹篙を発するに、一官長あり、連根にて之を取り、仍お足に当つ。公、即ち超えて両階にて之を用う。
現代語訳
劉備が劉表のもとに身を寄せていた時、兵が少なく曹操に備えるのに足りないことを憂えていた。諸葛亮が進言した。「荊州は人が少ないのではありません。戸籍に載っている者が少ないのです。普段から徴発すれば、民の心が悦ばないでしょう。劉荊州にお話しして、戸籍外の流民がいれば、みな自分で申告させ、それを記録して兵を増やせばよいのです」。劉備はこの計に従い、その軍勢は強くなった。陶侃は性格が倹約と厳格で、仕事に勤勉だった。荊州にいた時、船官に命じて鋸屑をすべて記録させ、多少を問わなかった。誰もこの意図を理解しなかった。後の正月の儀式で、積もった雪がちょうど晴れたとき、役所の庭前は雪を除いた後もまだ湿っていた。そこで鋸屑をすべて使ってこれを覆い、少しも不都合がなかった。官が竹を使う際は、根元の厚い部分をすべて記録させた。積み上げると山のようになった。後に桓温が蜀を討つ時、船に装着する釘をすべてこれで作った。またある時、各所から竹竿を徴発すると、一人の官吏が根ごと掘り取って足に当てて(釘の代用に)した。陶侃はその人を二階級飛び越えて抜擢した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』知微・諸葛亮・梅國楨客が昭烈(劉備)の所に至り、談論は甚だ愜った。諸葛亮が忽ち入ると、客は遂に起って厠に如いた。備は亮に客を誇って語った。亮は曰く、「客を観るに、色は動き神は懼れ、視ることは低く盼ることは数しく、奸形は外に漏れ、邪心は内に蔵されています。必ず曹氏の刺客です」と。急いで追うと、已に牆を越えて遁れていた。少司馬の梅公衡湘は三鎮を総督していた。虜の酋が忽ち鉄数鎰を以て献じ、「これは沙漠の新産です」と言った。公は意うに、必ずこの事は無く、彼は我が鉄禁を弛めることを幸いとするのだと思い、そこで慰めて遣わし、即ちその鉄を以て一剣を鋳し、鎸って「某年月、某王贈鉄」と云った。因って諸辺に檄告して、「虜中には已に鉄が産する、釜を市うことは必要ない」と言った。その後、虜に釜が欠けて、来て旧例を言うと、公は曰く、「汝の国には既に鉄が有る、自ら冶すべきだ」と。虜使は嘩いで無いと言ったので、公は乃ち剣を出してこれに示した。虜使は叩頭して罪に服し、これより敢えて公に一言も欺かなかった。〔馮按〕公は雲中を撫するに、虜王が款塞するに値い、静を以てこれを鎮めた。華人で夷の物を盗む者に遇えば、これを法に置き、夷人が賞額の外に一絲一粟を増すことを求めても、得られなかった。公は一日、大いに出猟し、盛んに旗幟を張り、諸将に尽く甲して従わせ、大漠で校射した。県令は非時に稼を妨げるとして、心にこれを怪しんだが敢えて言わなかった。後数日、虜の諜を獲て云うには、虜は入犯しようとしたが、備え有るを聞いて中止したという。令は乃ち歎服し、公の心計は人の及ぶ所でないとした。
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『智囊』集哲・陶侃母陶侃の母湛氏は、豫章新淦の人なり。初め侃の父丹聘して妾と為し、侃を生む。陶氏貧賤にして、湛は毎に紡績して貲し之に給し、勝己と交結せしむ。侃少くして潯陽の県吏と為り、嘗て魚梁を監し、一封の鮓を以て母に遺る。湛は鮓を還し、書を以て侃を責めて曰く、「爾吏と為りて、官物を以て我に遺る。唯だ我を益する能わざるのみならず、乃ち以て吾が憂いを増す」と。鄱陽の范逵は素より名を知られ、孝廉に挙げられ、侃に投じて宿る。時に冰雪積むこと日あり、侃の室は懸磬の如く、而して逵の僕馬は甚だ多し。湛侃に語りて曰く、「汝は但だ外に出でて客を留めよ、吾れ自ら計を為さん」と。湛は頭髪地に委ぬるに、下して二髲と為し、売りて数斛の米を得たり。諸の屋柱を斲りて、悉く半ばを割きて薪と為し、臥薦を剉きて以て馬草と為し、遂に精饌を具え、従者に俱に給す。逵聞きて歎じて曰く、「此の母に非ざれば此の子を生まず」と。洛陽に至り、大いに為に誉れを延ばし、侃遂に通顕す。
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『智囊』通簡・諸葛亮丞相は既に南中を平らげ、皆な其の渠率に即きて之を用う。或るひと諫めて曰く、「公の天威の加わる所、南人は率い服す。然れども夷情は測り難く、今日服するも、明日は復た叛かん。宜しく其の来降に乗じて、漢官を立てて其の衆を分統せしめ、約束に帰せしめ、漸く政教に染まらしむべし。十年の内に、辮首は化して編氓と為すべし、此れ上計なり」と。公曰く、「若し漢官を立てれば、則ち当に兵を留むべし、兵留まれば則ち食する所無し、一の易からざるなり。夷は新たに傷破し、父兄は死喪す、漢官を立てて兵無くんば、必ず禍患を成す、二の易からざるなり。又た夷は累ねて廃殺の罪有り、自ら釁の重きを嫌う、若し漢官を立てれば、終に相信ぜず、三の易からざるなり。今、吾は兵を留めず、糧を運ばず、而して綱紀粗ぼ定まり、夷と漢をして相安んぜしむれば足る」と。是より亮の世を終うるまで、夷は復た反せず。〔馮述評〕《晋史》に、桓温は蜀を伐つに、諸葛孔明の小史は猶お存し、時に年百七十歳なり。温は問うて曰く、「諸葛公に何の人に過ぐる有りや」と。史は対えて曰く、「亦た未だ人に過ぐる処有らず」と。温は便ち自ら矜る色有り、史は良や久しくして曰く、「但だ諸葛公より以後、更に未だ公の如く妥当なる者を見ず」と。温は乃ち慚じ服す。凡そ事は只だ「妥当」を得るに難し。此の二字は、孔明の知己なり。
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『長短経』三国権〔時に劉表薨ず。諸葛亮、琮を攻めば荊州有つべしと説く。先主曰く「荊州亡ぶるに臨み、我に託するに遺孤を以てす。吾忍びざるなり」と。荊州の人多く先主に帰し、先主日に行くこと十余里。或るひと曰く「宜しく速やかに行きて江陵を保つべし」と。先主曰く「夫れ大事を済す者は、人を以て本と為す。今、人吾に帰す。何ぞ棄て去るに忍びん」と。習鑿齒曰く「劉主は顛沛険難すと雖も、信義愈々明らかに、勢逼り事危うくして、言道を失わず。景升の顧みを追えば、則ち情三軍を感ぜしめ、義に赴くの士を恋えば、則ち甘んじて与に敗るるを同じくす。其の物情を結ぶ所以を視るに、豈に徒に醪を投じ、寒を撫し、蓼を含み、疾を問うのみならんや。其の終に大業を済すこと、亦た宜ならずや」と。〕
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『智囊』武案・項梁・司馬師項梁、嘗て人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫は皆な梁の下に出づ。大繇役及び喪有る毎に、梁は常に主辦す。陰かに兵法を以て賓客・子弟を部勒し、以て其の能を知る。後に果たして事を挙げ、人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。豪傑を部署して校尉・侯・司馬と為す。一人の官を得ざる者有り、自ら言う。梁曰く、「某の時の某の喪に、公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能わず。故を以て公を任ぜず」と。衆乃ち皆な服す。
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