智囊 / 經務・丁謂
祥符中,禁中火。時丁謂主營復宮室,患取土遠,公乃命鑿通衢取土,不日皆成巨塹,乃決汴水入塹中,引諸道竹木牌筏及船運雜材,盡自塹中入,至公門事畢,卻以拆棄瓦礫灰壤實於塹中,復為街衢,一舉而三役濟,計省費以億萬計。〔馮評〕此公盡有心計,但非相才耳,故曰:「人不可大受,而可小知。」
新字:祥符中,禁中火。時丁謂主営復宮室,患取土遠,公乃命鑿通衢取土,不日皆成巨塹,乃決汴水入塹中,引諸道竹木牌筏及船運雑材,尽自塹中入,至公門事畢,却以拆棄瓦礫灰壤実於塹中,復為街衢,一舉而三役済,計省費以億万計。〔馮評〕此公尽有心計,但非相才耳,故曰:「人不可大受,而可小知。」
書き下し
祥符中、禁中に火あり。時に丁謂は営みて宮室を復するを主り、土を取ること遠きを患う。公、乃ち命じて通衢を鑿ち土を取らしむ。日ならずして皆な巨塹と成り、乃ち汴水を決して塹中に入れ、諸道の竹木の牌筏及び船の雑材を運ぶものを引き、尽く塹中より入り、公門に至りて事畢る。却って拆棄の瓦礫・灰壌を以て塹中に実し、復た街衢と為す。一挙にして三役済み、費を省くこと億万を以て計う。〔馮評〕此の公は尽く心計あり。但だ相の才にあらざるのみ。故に曰く、「人は大受すべからずして小知すべし」と。
現代語訳
祥符年間、宮中で火災があった。当時、丁謂が宮殿の再建を取り仕切っていたが、土を遠くから取ってくるのに悩んでいた。公は命じて大通りを掘って土を取らせた。数日で大通りはすべて巨大な堀となり、そこで汴水を切って堀の中に引き入れ、各地から来る竹や木のいかだ、船が運ぶ雑多な材料を、すべて堀の中を通って入れ、宮門まで来て荷運びを終えた。その後、壊して捨てた瓦礫や灰土で堀を埋め、もとの街路に戻した。一つの計画で三つの仕事が済み、節約した費用は億万と数えられた。〔馮夢龍の評〕この人は心計に優れている。ただ宰相の器ではない。だから「人は大きな任務を受けることはできないが、小さなことは見分けられる」と言うのだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『智囊』經務・鄭曉時公曰く、「三殿の災は、朝廷已に天下に詔す。如何ぞ不雅と説かん。誰か敢えて朝廷の龍文の磚石を将て罪廃せる太平侯の故宅を填めんや。況んや寿宮の災、九廟の災にも、火焦は皆な長安の両門外に出す。軍士は長安大街より重ねて去りて空にて来たれば、人は並び行くべく、官は照管すべし。若し西の夾道より入れば、必ず寺の東の夾道より出ず。路は一半を多くし、三万人は只だ一万五千人の生活を做し得るのみ。豈に営軍の為に人の坑を填むるものあらんや。且つ火焦は工部に尚お用処あり、木石の料が完わるを待ちて、火焦を取りて路を鋪かんとす。長安の坊牌の下より、直ちに奉天殿の前に填め、五寸を加うる毎に、杵もて碎きて平らかに実し、又た五寸を加え、三尺ばかりに至りて、方に上にて大車・旱船・滾石を行らすべし。然らずんば街道・廊道は皆な壊れん。見今、午門外の東西の脇下に数万担の火焦が積堆す。若し搬出すれば、正に久しからずして又た搬入せんことを慮るのみ」と。趙、複た語るも、公は径ちに出ず。
-
『智囊』經務・鄭曉時公曰く、「午門以裏の台基の壊石は、長安の両門に移し出すこと甚だ遠し。今、厚載門の修砌・剝岸は、若し軍に命じて右順門に搬出し、啓明門の前より下りて北するは甚だ近し。就ち此の石を以て剝岸を作り填堵すれば、工部の估料を減ずるを須いず、但だ軍士の労力を省くのみにても亦た可なり」と。黄又た曰く、「善し」と。公曰く、「旧例では、火焦の木は、軍が琉璃・黒窯の二廠に搬送す。往回四十里なり。今、焦木は皆な長大にして、唯だに皇城の諸門のみ出で難きにあらず、外面の房は稠く路は狭く、行き難く転じ難し。況んや今は災変にして、各門の内臣の小房は、毁れざれば即ち折壊す。必ず修蓋して方に身を容るべし。焦木を左右順門の外、東西の宝善・思善の二門の前後、並びに啓明・長庚の両長街に移し出し、各内臣に聴して焦皮を擘き炭と作さしめ、木心の用うべき者は任便取り去りて、各おの私房を修めしむに若くは莫し。皇城内の物を以て皇城内の房を修め、皇城の四門を出でざれば、亦た財力を省かん」と。黄又た曰く、「善し」と。錦衣の趙千戸、陸錦衣の帖を持ち来たりて言う、「軍士の搬出せる火焦は、俱に長安の両門外、大街の両旁に置く。四夷の朝貢の人の往来するに、見て不雅なり。慶寿寺の西の夾道に深坑あり。火焦を以て填満すべし」と。
-
『智囊』經務・賀盛瑞嘉靖中、三殿を修す。中道の階石は長さ三丈、闊さ一丈、厚さ五尺。順天等八府の民夫二万を派し、旱船を造りて拽運す。府県の佐二官を派して之を督せしめ、里ごとに一井を掘り、以て旱舡を澆ぎ、渴飲を資け、二十八日にして京に到るを計る。官民の費は総計して銀十一万両有奇。万暦中、鼎建の両宮の大石も、御史亦た五城の人夫を僉用するの議あり。工部郎中賀盛瑞は、主事郭知易の議を用い、十六輪の大車を造り、騾一千八百頭を用いて拽運し、二十二日にして京に到るを計る。費は七千両に足らず。又た四輪の官車百輛を造り、殷実の戸を召募して之を領せしめ、木石を拽運し、毎日騾を計りて直を給す。其の車価は輛ごとに百金、毎年その運価二十両を扣し、五年を以て率と為し、官銀は固より在り、一民も擾がず。慈寧宮の石礎二十余あり、公、令して工所に運入せしむ。内監は嘩然として旧しと言う。公曰く、「石、安んぞ旧しと言うを得ん。一鑿すれば便ち新たなり。事あらば我自ら当たらん。爾の累ならざるなり」と。
-
『智囊』經務・鄭曉時公は又た曰く、「奉天門の階沿石は一塊三級、殿上の柱磉の大なる者は方二丈なり。此の如く重大にして、往時の皇城に門限の隔て無く拽ぎ進むべきに比せず。近年、九廟の災に、木石の諸料は進むること能わず、承天門の東牆を拆去して方に進み得たり。今の料は九廟に比して又た三重門を進むれば、尤も力を為し難し。焦土を起開し、旧き階沿・磉石・地面の花板石を、逐一に番転すれば、尚お堅厚にして用うべきものあり。下面を番取し、工を加えて之を用う。殿上の三級の台基及び楼門の台基に至るまで、俱に午門の如く挖補すれば皆な可なり。公、能く力めて此の議を主れば、夫力を省くこと万万、銀糧は何ぞ数百万に至らん。驢騾・車輛も又た幾ばくか知らず。莫大の功徳なり」と。徐は甚だ喜び、後三日に再び議し、悉く前説の如し。
-
『智囊』經務・鄭曉時嘉靖丁巳四月、三殿・三楼・十五門は俱に災に遭い、文武の大臣会議して修建せんとす。海塩の鄭公暁時、協理戎政たりて、営軍三万人を率い、火焦を打掃す。鄭公、黄司礼に白して曰く、「磚瓦・木石は必ずしも尽く数して発出せず。石の全き者、半ばなる者、一尺以上の者の如きは、各おの別に団囲し、就便して堆積すべし。白玉石の燒けて石灰と成れる者も、亦た別に堆積し、磚瓦も皆な然り」と。数日ならずして、工部は端門外の廊房を改修して六科及び各朝房と為し、午門以裏の燒柱・牆缺を修補せんと欲し、又た謹身殿の後・乾清宮の前、隆宗・景運の二門の中に高牆一道を砌いて内外を攔断せんとし、内監・工部は外より磚を運び、灰を運び、黄土を運びて灰を調えんと議し、一時に小車五千輛を起こし、民間騒動す。公、黄司礼に告げて曰く、「午門外に旧磚石・石灰を堆積すること無数なり。尽く工部に与えて端門外の廊房を修めしむべし。午門以内に在る者は、内監に与えて柱空を修理し、並びに乾清宮前の牆を砌かしむべし」と。黄は甚だ喜ぶ。公は又た曰く、「修砌には必ず黄土を用う。今、工部は車五千輛を起こすも、一時に集まるを得ず。況んや長安の両門、承天・端門・午門は、止だ軍夫の出入を容るるのみ。再び車輛を加うれば、阻塞して行き難し。見今、大工動作し、両闕門の外に空地多し。黄土を挖るべし。用い卻えれば、軍をして焦土を搬して填上せしめ、黄土を用いて蓋うこと三尺なれば、豈に両便ならずや」と。黄曰く、「善し」と。
-
『智囊』權奇・楊雲才楊雲才は心計多し。每に繕修有れば、略ぼ意を以て之に指授し、人は為す所を知らず。成るに及び、始めて其の精妙に服す。荊州同知為りし日、郡城の改拓に当たり、銭穀の額は已に成命有り、而るに台使者、檄下して、二尺許りを増さんと欲す。監司、守令に謀り、稍や故額を益さんと欲す。雲才、進みて曰く、「某に別画有り、一銭を費やすを煩わさず」と。次日、馳せて陶所に至り、其の模を取りて献ぜしむ。怒りて曰く、「佳からず」と。尽く之を砕き、己の制する所の模を出して之に付して曰く、「第だ式の如く之を為せ」と。諸人、其の式を視るに、以て異なる無し。然れども雲才、実に中に於いて陰かに溢すこと二分許り、之を積みて増す所の数の如きを得たり。城成り、其の故を白す。監司、乃ち大いに服す。〔評〕磚は厚きも陶者は知らず、城は増すも主者は費やさず。心計の妙、思神に侔し。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る