智囊 / 通簡・諸葛亮
丞相既平南中,皆即其渠率而用之。或諫曰:「公天威所加,南人率服。然夷情叵測,今日服,明日復叛。宜乘其來降,立漢官分統其眾,使歸約束,漸染政教。十年之內,辮首可化為編氓,此上計也。」公曰:「若立漢官,則當留兵,兵留則無所食,一不易也;夷新傷破,父兄死喪,立漢官而無兵者,必成禍患,二不易也;又夷累有廢殺之罪,自嫌釁重,若立漢官,終不相信,三不易也。今吾不留兵,不運糧,而綱紀粗定,使夷漢相安足矣。」自是終亮之世,夷不復反。〔馮述評〕《晉史》,桓溫伐蜀,諸葛孔明小史猶存,時年一百七十歲。溫問曰:「諸葛公有何過人?」史對曰:「亦未有過人處。」溫便有自矜之色,史良久曰:「但自諸葛公以後,更未見有妥當如公者。」溫乃慚服。凡事只難得「妥當」,此二字,是孔明知己。
新字:丞相既平南中,皆即其渠率而用之。或諫曰:「公天威所加,南人率服。然夷情叵測,今日服,明日復叛。宜乗其来降,立漢官分統其衆,使帰約束,漸染政教。十年之内,辮首可化為編氓,此上計也。」公曰:「若立漢官,則当留兵,兵留則無所食,一不易也;夷新傷破,父兄死喪,立漢官而無兵者,必成禍患,二不易也;又夷累有廃殺之罪,自嫌釁重,若立漢官,終不相信,三不易也。今吾不留兵,不運糧,而綱紀粗定,使夷漢相安足矣。」自是終亮之世,夷不復反。〔馮述評〕《晋史》,桓温伐蜀,諸葛孔明小史猶存,時年一百七十歳。温問曰:「諸葛公有何過人?」史対曰:「亦未有過人処。」温便有自矜之色,史良久曰:「但自諸葛公以後,更未見有妥当如公者。」温乃慚服。凡事只難得「妥当」,此二字,是孔明知己。
書き下し
丞相は既に南中を平らげ、皆な其の渠率に即きて之を用う。或るひと諫めて曰く、「公の天威の加わる所、南人は率い服す。然れども夷情は測り難く、今日服するも、明日は復た叛かん。宜しく其の来降に乗じて、漢官を立てて其の衆を分統せしめ、約束に帰せしめ、漸く政教に染まらしむべし。十年の内に、辮首は化して編氓と為すべし、此れ上計なり」と。公曰く、「若し漢官を立てれば、則ち当に兵を留むべし、兵留まれば則ち食する所無し、一の易からざるなり。夷は新たに傷破し、父兄は死喪す、漢官を立てて兵無くんば、必ず禍患を成す、二の易からざるなり。又た夷は累ねて廃殺の罪有り、自ら釁の重きを嫌う、若し漢官を立てれば、終に相信ぜず、三の易からざるなり。今、吾は兵を留めず、糧を運ばず、而して綱紀粗ぼ定まり、夷と漢をして相安んぜしむれば足る」と。是より亮の世を終うるまで、夷は復た反せず。〔馮述評〕《晋史》に、桓温は蜀を伐つに、諸葛孔明の小史は猶お存し、時に年百七十歳なり。温は問うて曰く、「諸葛公に何の人に過ぐる有りや」と。史は対えて曰く、「亦た未だ人に過ぐる処有らず」と。温は便ち自ら矜る色有り、史は良や久しくして曰く、「但だ諸葛公より以後、更に未だ公の如く妥当なる者を見ず」と。温は乃ち慚じ服す。凡そ事は只だ「妥当」を得るに難し。此の二字は、孔明の知己なり。
現代語訳
丞相(諸葛亮)は南中を平定すると、現地の首長たちをそのまま用いた。ある人が諫めた。「公の威光が及んで、南の人々はこぞって服しています。しかし蛮夷の心は測りがたく、今日従っても、明日はまた背くでしょう。降伏した今に乗じて、漢の官吏を置いてその民を分けて統治させ、規律に従わせ、次第に政治と教化に染まらせるべきです。十年のうちに、辮髪の者も戸籍に編まれた民に変えられます。これが上策です」。公は言った。「もし漢の官吏を置けば、兵も留めねばならず、兵を留めれば食糧がない。これが第一の難点である。蛮夷は先ごろ打ち破られ、父兄が戦死している。漢の官吏を置いて兵がなければ、必ず禍が起こる。これが第二の難点である。また蛮夷は何度も殺害の罪があり、自ら罪の重さを恐れている。もし漢の官吏を置けば、最後まで互いに信じ合えない。これが第三の難点である。いま私は兵を留めず、食糧も運ばず、それでも秩序がほぼ定まり、蛮夷と漢人が互いに安んじていれば十分である」。それ以来、諸葛亮の世が終わるまで、蛮夷は二度と反しなかった。〔馮夢龍の評〕『晋書』に、桓温が蜀を討ったとき、諸葛孔明に仕えた小役人がまだ生きていて、年は百七十歳であった。温は尋ねた。「諸葛公には何か人に勝るところがありましたか」。小役人は答えた。「特に人に勝るところはありませんでした」。温はそこで得意げな様子になった。小役人はしばらくして言った。「ただ、諸葛公より後には、公のように妥当な方を見たことがありません」。温は恥じ入って服した。物事は「妥当」を得るのが難しい。この二字こそ、孔明の知己である。
解説
この章句が説くこと
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『長短経』臣行奇策泉のごとく涌き、遂に東のかた孫権に説き、北のかた大魏に抗す。乗勝の師を以て、翼佐して蜀を取る。玄徳の臨終に及び、禅るに大位を以てす。擾攘の際に在りて、童蒙の主を立て、官を設け職を分かち、衆才を班叙す。文以て内を治め、武以て衝を折く。然る後に其の恩沢を国中の人に布く。其の軍を行るや、路に遺を拾わず、毫毛も犯さず。勲業垂れ済らんとして隕つ。其の遺文を勧むるに、謨謀弘遠なり。已に功有れば則ち下に譲り、下に闕有れば則ち躬ら自ら咎む。善を見れば則ち遷り、諫を納るれば則ち改む。故に声烈は遐邇に震うなり。孟子曰く『伯夷の風を聞けば、貪夫も自ら廉なり』と。余、以為えらく、孔明の忠を覩れば、奸臣も節を立つ。殆ど将に伊・呂と烈を争わんとす。豈に徒だ楽毅を以て伍と為さんや」と。〕
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『智囊』見大・諸葛亮諸葛丞相の赦を惜しむと言う者有り。亮答えて曰く、世を治むるには大徳を以てし、小恵を以てせず。故に匡衡・呉漢は赦を為すを願わず。先帝も亦た言う、吾れ陳元方・鄭康成の間に周旋し、見る毎に啓告せらるるに、治乱の道は悉くせり。曾て赦に及ばざるなり。劉景升父子の歳歳赦宥するが若きは、治に何の益あらんや、と。費禕の政を為すに及び、始めて姑息を事とし、蜀遂に以て削らる。〔馮述評〕子産は子太叔に謂いて曰く、唯だ徳有る者のみ、能く寛を以て民を服す。其の次は猛に如くは莫し。夫れ火は烈しく、民望みて之を畏る。故に死する者鮮し。水は懦弱にして、民狎れて之を玩ぶ。則ち死する者多し。故に寛は難し、と。太叔は政を為すに猛に忍びず、寛なり。是に於いて鄭国に盗多し。太叔之を悔ゆ。仲尼曰く、政寛なれば則ち民慢り、慢れば則ち之を糾すに猛を以てす。猛なれば則ち民残われ、残われれば則ち之に施すに寛を以てす。寛以て猛を済し、猛以て寛を済す。政是を以て和す、と。商君の刑は棄灰に及ぶ、猛に過ぐる者なり。梁武は死刑を見る輒ち涕泣して之を縦つ、寛に過ぐる者なり。『論語』は小過を赦し、『春秋』は肆大眚を譏る。之を合わせて、政の和を得るなり。
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『智囊』知微・諸葛亮・梅國楨客が昭烈(劉備)の所に至り、談論は甚だ愜った。諸葛亮が忽ち入ると、客は遂に起って厠に如いた。備は亮に客を誇って語った。亮は曰く、「客を観るに、色は動き神は懼れ、視ることは低く盼ることは数しく、奸形は外に漏れ、邪心は内に蔵されています。必ず曹氏の刺客です」と。急いで追うと、已に牆を越えて遁れていた。少司馬の梅公衡湘は三鎮を総督していた。虜の酋が忽ち鉄数鎰を以て献じ、「これは沙漠の新産です」と言った。公は意うに、必ずこの事は無く、彼は我が鉄禁を弛めることを幸いとするのだと思い、そこで慰めて遣わし、即ちその鉄を以て一剣を鋳し、鎸って「某年月、某王贈鉄」と云った。因って諸辺に檄告して、「虜中には已に鉄が産する、釜を市うことは必要ない」と言った。その後、虜に釜が欠けて、来て旧例を言うと、公は曰く、「汝の国には既に鉄が有る、自ら冶すべきだ」と。虜使は嘩いで無いと言ったので、公は乃ち剣を出してこれに示した。虜使は叩頭して罪に服し、これより敢えて公に一言も欺かなかった。〔馮按〕公は雲中を撫するに、虜王が款塞するに値い、静を以てこれを鎮めた。華人で夷の物を盗む者に遇えば、これを法に置き、夷人が賞額の外に一絲一粟を増すことを求めても、得られなかった。公は一日、大いに出猟し、盛んに旗幟を張り、諸将に尽く甲して従わせ、大漠で校射した。県令は非時に稼を妨げるとして、心にこれを怪しんだが敢えて言わなかった。後数日、虜の諜を獲て云うには、虜は入犯しようとしたが、備え有るを聞いて中止したという。令は乃ち歎服し、公の心計は人の及ぶ所でないとした。
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『智囊』不戰・諸葛恪恪、府に至り、乃ち書を四郡の属城の長吏に遺り、各おの其の疆界を保ち、部伍を明立し、其の化に従う平民は、悉く屯居せしめ、乃ち分内の諸将に兵を幽阻に羅ねしめ、但だ藩籬を繕い、交鋒せず、其の谷の熟するを候ちて、輒ち兵を引きて芟刈し、遺種無からしめ、旧谷既に尽き、新田収められず、平民屯居して、略ぼ得る所無し。是に於いて山民飢窮し、漸く出でて降首す。恪乃ち復た敕下して曰く、「山民の悪を去り化に従う者は、皆な当に撫慰すべし、外県に徙出し、嫌疑して執拘する所有るを得ざれ」と。長吏胡伉、降民周遺を獲たり。遺は旧悪の民にして、困迫して暫く出で、内に叛逆を図る。伉執えて恪に送る。恪は伉の教に違うを以て、遂に斬りて以て徇う。民は伉の坐戮せらるるを聞き、官は唯だ之を出さんと欲するのみなるを知り、是に於いて老幼相い携えて出づ。歳期、人数は皆な本の規の如し。
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『長短経』三国権時に司徒華歆・司空王朗等、諸葛亮に書を与え、天命を陳べて、国を挙げて藩と称せしめんと欲す。亮、書に答えず、正議を作りて曰く「昔、項羽に在りては、起こるに徳に由らず。華夏に処り、帝者の勢いを秉ると雖も、卒に湯鑊に就き、後来の戒めと為る。魏は審らかに鑑みず、今之に次ぐ。身を免るるを幸いと為すも、戒めは子孫に在り。而るに二三子、多く蘇・張の詭靡の説を逞しくし、驩兜の滔天の辞を奉進し、以て唐帝を誣毀し、禹・稷を諷解せんと欲す。所謂徒に文藻を懐き、翰墨を煩労するもの、大雅の君子の為さざる所なり。又た軍志に曰く『万人必死なれば、天下に横行す』と。昔、軒轅氏は卒数万を整えて、四方を制し海内を定む。況んや数十万の衆を以て、正道に拠りて有罪に臨むをや。干擬すべけんや」と。亮死して後、魏は鄧艾をして蜀を伐たしめ、蜀兵敗る。後主、譙周の策を用いて魏に降る。
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