智囊 / 經務・陳霽岩
陳霽岩在開州。己巳之冬,倉穀幾盡,撫台命各州縣動支在庫銀二千兩糴穀。此時穀價騰踴,每石銀六錢,各縣遵行,派大戶領糴,給價五錢一石,每石賠已一錢,耗費復一錢,災傷之餘,大戶何堪?而入倉穀止四千石,是上下兩病也。公堅意不行,竟以此被參。以災年僅免,至庚午秋,州之高鄉大熟,鄰境則盡熟,穀價減至三錢餘。方申撫台動支銀二千兩,派大戶分糴,報價三錢,即如數給之。自後時價益減至二錢五分。大戶請扣除餘銀,公笑應之曰:「寧增谷,勿減銀也。」比上年所買,多谷三千餘石,而大戶無累賠。報上司外,餘谷七百餘石,則盡以給流民之復業者。先是本州土城十五,連年大雨灌注,凡崩塌數十處。庚午秋,當議填修,吏請役鄉夫,公不許。會有兩年被災,流民聞已蠲荒糧,思還鄉井。因遍出示招撫,云:「亟歸種麥,官當賑爾。」乃出前大戶所糴餘谷,刻期給散。另出四五小牌於各門一里外,令各將盛谷袋,裝土到城上,填崩塌處。總甲於面上用印,倉中驗印發谷,再賑而城已修完。
新字:陳霽岩在開州。己巳之冬,倉穀幾尽,撫台命各州県動支在庫銀二千両糴穀。此時穀価騰踴,毎石銀六銭,各県遵行,派大戸領糴,給価五銭一石,毎石賠已一銭,耗費復一銭,災傷之余,大戸何堪?而入倉穀止四千石,是上下両病也。公堅意不行,竟以此被参。以災年僅免,至庚午秋,州之高郷大熟,鄰境則尽熟,穀価減至三銭余。方申撫台動支銀二千両,派大戸分糴,報価三銭,即如数給之。自後時価益減至二銭五分。大戸請扣除余銀,公笑応之曰:「寧增谷,勿減銀也。」比上年所買,多谷三千余石,而大戸無累賠。報上司外,余谷七百余石,則尽以給流民之復業者。先是本州土城十五,連年大雨灌注,凡崩塌数十処。庚午秋,当議填修,吏請役郷夫,公不許。会有両年被災,流民聞已蠲荒糧,思還郷井。因遍出示招撫,云:「亟帰種麦,官当賑爾。」乃出前大戸所糴余谷,刻期給散。另出四五小牌於各門一里外,令各将盛谷袋,装土到城上,填崩塌処。総甲於面上用印,倉中験印発谷,再賑而城已修完。
書き下し
陳霽岩、開州に在り。己巳の冬、倉穀幾ど尽く。撫台、各州県に命じて在庫の銀二千両を動支して糴穀せしむ。此の時穀価騰踴し、毎石銀六銭、各県遵行し、大戸に派して糴を領せしめ、価を給すること五銭一石、毎石己を賠すること一銭、耗費復た一銭。災傷の余、大戸何ぞ堪えん。而して倉に入る穀は止だ四千石、是れ上下両つながら病むなり。公、堅く意をして行わず、竟に此を以て参せらる。災年を以て僅かに免る。庚午の秋に至り、州の高郷大いに熟し、隣境は則ち尽く熟し、穀価減じて三銭余に至る。方に撫台に申して銀二千両を動支し、大戸に派して分かち糴せしめ、価を報ずること三銭なれば、即ち数の如く之を給す。自後時価益す減じて二銭五分に至る。大戸、余銀を扣除せんことを請う。公笑いて之に応じて曰く、「寧ろ穀を増すとも銀を減ぜず」と。上年の買う所に比して、穀多きこと三千余石、而して大戸に累賠無し。上司に報ずるの外、余穀七百余石は、則ち尽く以て流民の復業する者に給す。先に是れ本州の土城十五、連年の大雨灌注し、凡そ崩塌すること数十処。庚午の秋、当に議して填修すべし。吏、郷夫を役せんことを請う。公許さず。会たま両年の被災有り、流民は已に荒糧を蠲くを聞き、郷井に還らんことを思う。因りて遍く示を出して招撫して云う、「亟かに帰りて麦を種えよ、官当に爾を賑うべし」と。乃ち前の大戸の糴する所の余穀を出だし、刻期して給散す。另に四五の小牌を各門の一里外に出し、各おの盛穀の袋を将て、土を装いて城上に到り、崩塌の処を填めしむ。総甲は面上に印を用い、倉中に印を験して穀を発す。再び賑して城已に修め完わる。
現代語訳
陳霽岩は開州にいた。己巳の年の冬、倉の穀物はほとんど尽きていた。撫台は各州県に命じて、庫にある銀二千両を使い、穀物を買い入れさせた。この時は穀物の値が高騰して、一石につき銀六銭だった。各県は命令に従い、大戸に割り当てて買い入れさせ、値を一石五銭で支払ったので、大戸は一石ごとに一銭の持ち出しとなり、さらに諸経費で一銭かかった。災害の後で、大戸がどうして耐えられようか。しかも倉に入った穀物はわずか四千石で、上も下も共に苦しむことになった。公は断固として実行せず、結局このことで弾劾された。災害の年であったため、辛うじて免れた。庚午の秋になり、州の高地の郷は大豊作となり、隣の地域もすべて豊作で、穀物の値は三銭あまりに下がった。そこで撫台に申し出て銀二千両を使い、大戸に割り当てて分けて買い入れさせ、値を三銭と報告すると、その額どおり支払った。その後、時価はさらに下がって二銭五分になった。大戸は余った銀を差し引くよう願い出た。公は笑って答えた。「むしろ穀物を増やしても、銀は減らさない」。前年の購入量と比べて穀物が三千石あまり多く、しかも大戸に負担の持ち出しはなかった。上司に報告した分以外の余り穀物七百石あまりは、すべて帰農する流民に与えた。以前から州の土城十五か所は、毎年の大雨で崩れ、崩壊した場所が数十か所にのぼっていた。庚午の秋、修復を議すべきとなった。役人は郷の人夫を徴発したいと願い出たが、公は許さなかった。ちょうど二年間被災した流民は、荒れた地の糧が免除されたと聞いて、故郷に帰りたいと思っていた。そこで広く告示を出して招き、「急いで帰って麦を植えよ、官が必ずお前たちを救う」と言った。前の大戸が買い入れた余りの穀物を出し、期日を決めて支給した。別に四、五の小さな札を各門の一里外に出し、それぞれ穀物を入れる袋に土を詰めて城の上まで運ばせ、崩れた所を埋めさせた。総甲は袋の表に印を押し、倉の中で印を確認して穀物を渡した。再び救済をして、城は修理が完了した。
解説
この章句が説くこと
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