智囊 / 剖疑・張田
張田知廣州,廣舊無外郭,田始築東城,賦功五十萬。役人相驚以白虎夜出。田跡知其偽,召邏者戒曰:「今日有白衣出入林間者謹捕之。」如言而獲。〔馮述評〕嘉靖中,京師有物夜出,毛身利爪,人獨行遇之,往往棄所攜物,駭而走。督捕者疑其偽,密遣健卒詐為行人,提衣囊夜行。果復出,掩之,乃盜者蒙黑羊皮,著鐵爪於手,乘夜恐嚇人以取財也。近日蘇郡城外,夜有群火出林間或水面,聚散不常,哄傳鬼兵至,愚民嗚金往逐之;亦有中刺者,旦視之,藁人也。所過米麥一空,咸謂是鬼攝去,村中先有乞食道人傳說其事,勸人避之。或疑此道人乃為賊游說者,度鬼火來處,伏人伺而擒之,果糧船水手所為也。搜得油紙筒,即水面物。眾囂頓息。
新字:張田知広州,広旧無外郭,田始築東城,賦功五十万。役人相驚以白虎夜出。田跡知其偽,召邏者戒曰:「今日有白衣出入林間者謹捕之。」如言而獲。〔馮述評〕嘉靖中,京師有物夜出,毛身利爪,人独行遇之,往往棄所攜物,駭而走。督捕者疑其偽,密遣健卒詐為行人,提衣嚢夜行。果復出,掩之,乃盗者蒙黒羊皮,著鉄爪於手,乗夜恐嚇人以取財也。近日蘇郡城外,夜有群火出林間或水面,聚散不常,哄伝鬼兵至,愚民嗚金往逐之;亦有中刺者,旦視之,藁人也。所過米麦一空,咸謂是鬼摂去,村中先有乞食道人伝説其事,勧人避之。或疑此道人乃為賊游説者,度鬼火来処,伏人伺而擒之,果糧船水手所為也。捜得油紙筒,即水面物。衆囂頓息。
書き下し
張田、広州を知す。広に旧と外郭無く、田始めて東城を築き、功を賦すること五十万。役人相驚かすに白虎の夜出づるを以てす。田、跡して其の偽を知り、邏者を召して戒めて曰く、「今日白衣にして林間に出入りする者有らば、謹みて之を捕らえよ」と。言の如くにして獲たり。〔馮述評〕嘉靖中、京師に物有りて夜出で、毛身利爪、人の独り行きて之に遇えば、往往にして携うる所の物を棄て、駭きて走る。督捕する者其の偽を疑い、密かに健卒を遣わして詐りて行人と為し、衣嚢を提げて夜行せしむ。果たして復た出づるに、之を掩えば、乃ち盗者の黒羊皮を蒙り、鉄爪を手に著け、夜に乗じて人を恐嚇して以て財を取るなり。近日蘇郡の城外に、夜に群火の林間或いは水面に出づる有り、聚散常ならず、哄伝して鬼兵至ると。愚民金を鳴らして往きて之を逐い、亦た刺に中たる者有り、旦に之を視れば藁人なり。過ぐる所は米麦一空し、咸な是れ鬼の攝り去ると謂う。村中に先に乞食の道人有りて其の事を伝説し、人に勧めて之を避けしむ。或るひと疑う、此の道人乃ち賊の為に游説する者かと。火の来たる処を度り、人を伏せて伺いて之を擒うれば、果たして糧船の水手の為す所なり。油紙筒を捜し得たり、即ち水面の物なり。衆囂頓に息む。
現代語訳
張田が広州の長官となった。広州にはもともと外郭がなく、張田が初めて東城を築き、五十万人分の工事を割り当てた。人夫たちは「夜に白い虎が出る」と互いに怯え合った。張田は足跡を調べてそれが偽物と見抜き、見回りの者に命じた。「今日、白い服で林の間を出入りする者がいたら、慎重に捕らえよ」。その言葉どおりに捕らえることができた。〔馮述評〕嘉靖年間、都に夜な夜な現れる怪物がいた。毛むくじゃらの体に鋭い爪があり、一人歩きの人が出会うと、たいてい持ち物を捨てて驚き逃げた。取り締まる役人はこれを偽物と疑い、ひそかに屈強な兵士を旅人に装わせ、衣類の袋を提げて夜道を歩かせた。果たして怪物が再び現れたので取り押さえると、盗人が黒い羊の皮をかぶり、手に鉄の爪をつけ、夜に乗じて人を脅して財物を奪っていたのだった。最近、蘇州の城外で、夜に林の間や水面に火の群れが現れ、集まったり散ったりして定まらず、鬼の兵が来たと噂が広がった。愚かな民は鉦を鳴らして追い払いに行き、刺された者もいたが、朝に見るとわらの人形だった。通った所では米も麦も一掃され、みな鬼が持ち去ったのだと言った。村では前から乞食の道士がそのことを語り、人々に避けるよう勧めていた。ある人が、この道士は賊のために触れ回っているのではと疑い、火が来る場所を推測して人を伏せて待ち伏せし捕らえたところ、果たして米を運ぶ船の水夫たちの仕業だった。油紙の筒が見つかり、これが水面の火の正体だった。人々の騒ぎはたちまちやんだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 呂太后本紀孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
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史記 范雎蔡沢列伝此の時に当たり、秦の昭王、謁者王稽を魏に使はす。鄭安平詐りて卒と為り、王稽に侍す。王稽問ふ、「魏に賢人の与に倶に西游すべき者有るか」と。鄭安平曰く、「臣の里中に張禄先生有り、君に見えて天下の事を言はんと欲す。その人仇有り、敢へて昼見えず」と。王稽曰く、「夜与に倶に来たれ」と。鄭安平、夜張禄と王稽に見ゆ。語未だ究まらざるに、王稽、范睢の賢なるを知り、謂ひて曰く、「先生、我を三亭の南に待て」と。私かに約して去る。王稽、魏を辞して去り、過りて范睢を載せて秦に入る。湖に至り、車騎の西より来たるを望見す。范睢曰く、「彼の来たる者は誰と為す」と。王稽曰く、「秦の相穣侯、東して県邑を行く」と。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は秦の権を専らにし、諸侯の客を内るるを悪むと。此れ恐らくは我を辱めん、我寧ろ且く車中に匿れん」と。頃有りて、穣侯果たして至り、王稽を労ひ、因りて車を立てて語りて曰く、「関東に何の変か有る」と。曰く、「有る無し」と。また王稽に謂ひて曰く、「謁君、諸侯の客子と倶に来たること無きを得んや。益無し、徒らに人の国を乱すのみ」と。王稽曰く、「敢へてせず」と。即ち別れ去る。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は智士なり、その事を見ること遅し。郷者車中に人有るを疑ひて、これを索むることを忘る」と。是に於いて范睢車を下りて走りて曰く、「此れ必ずこれを悔いん」と。行くこと十余里、果たして騎をして還りて車中を索めしむ、客無し、乃ち已む。王稽遂に范睢と咸陽に入る。已に使ひを報じ、因りて言ひて曰く、「魏に張禄先生有り、天下の弁士なり。曰く『秦王の国は累卵より危ふし、臣を得ば則ち安からん。然れども書を以て伝ふべからず』と。臣故に載せて来たる」と。秦王信ぜず、舎して食はしむるに草具を以てす。命を待つこと歳余。是の時に当たり、昭王已に立つこと三十六年。南のかた楚の鄢郢を抜き、楚の懐王秦に幽死す。秦東のかた斉を破る。湣王嘗て帝と称し、後これを去る。数々三晋を困しむ。天下の弁士を厭ひ、信ずる所無し。
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人物志・八觀天下の至精に非ずんば、其れ孰か能く其の実を得んや。
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史記 呉太伯世家頌を歌ふ。曰く、「至れるかな。直にして倨らず、曲にして詘せず、近くして偪らず、遠くして攜れず、遷りて淫せず、復りて厭かず、哀しみて愁へず、楽しみて荒まず、用ひて匱しからず、広くして宣べず、施して費さず、取りて貪らず、処りて厎まらず、行きて流れず。五声和し、八風平らかに、節に度有り、守に序有り、盛徳の同じき所なり」と。象箾・南籥を舞ふ者を見て、曰く、「美なるかな、猶ほ感有り」と。大武を舞ふを見て、曰く、「美なるかな、周の盛んなるや其れ此の若きか」と。韶護を舞ふ者を見て、曰く、「聖人の弘きも、猶ほ慚徳有り、聖人の難きなり」と。大夏を舞ふを見て、曰く、「美なるかな、勤めて徳とせず。禹に非ずんば其れ誰か能く之に及ばん」と。招箾を舞ふを見て、曰く、「徳至れるかな、大なるかな。天の燾はざる無きが如く、地の載せざる無きが如し。甚だ盛徳なりと雖も、以て加ふる無し。観止まれり。若し他の楽有るも、吾敢て観ず」と。魯を去り、遂に斉に使す。晏平仲に説きて曰く、「子速やかに邑と政とを納めよ。邑無く政無くんば、乃ち難を免れん。斉国の政は将に帰する所有らんとす。未だ帰する所を得ざれば、難未だ息まざるなり」と。故に晏子は陳桓子に因りて以て政と邑とを納め、是を以て欒・高の難を免る。斉を去り、鄭に使す。子産に見ゆること、旧交の如し。子産に謂ひて曰く、「鄭の執政侈る。難将に至らんとし、政は必ず子に及ばん。子政を為さば、慎むに礼を以てせよ。然らずんば、鄭国将に敗れんとす」と。鄭を去り、衛に適く。蘧瑗・史狗・史鰍・公子荊・公叔発・公子朝に説びて曰く、「衛には君子多し、未だ患有らざるなり」と。衛より晋に如き、将に宿に舎らんとして、鍾の声を聞き、曰く、「異なるかな。吾之を聞く、辯にして徳あらざれば、必ず戮に加へらると。夫子、罪を君に獲て以て此に在り。懼るるも猶ほ足らず、而るを又以て畔す可けんや。夫子の此に在るは、猶ほ燕の幕に巣くふがごとし。君、殯に在りて以て楽しむ可けんや」と。遂に之を去る。文子之を聞き、終身琴瑟を聴かず。晋に適き、趙文子・韓宣子・魏献子に説びて曰く、「晋国は其れ三家に萃まらんか」と。将に去らんとして、叔向に謂ひて曰く、「吾子之を勉めよ。君侈りて良多く、大夫皆富み、政は将に三家に在らんとす。吾子は直なり、必ず自ら難を免れんことを思へ」と。
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