智囊 / 剖疑・雋不疑
漢昭帝五年,有男子詣闕,自謂衛太子。詔公卿以下視之,皆莫敢發言。京兆尹雋不疑後至,叱從吏收縛,曰:「衛蒯聵出奔,衛輒拒而不納,《春秋》是之。太子得罪先帝,亡不即死,今來自詣,此罪人也。」遂送詔獄,上與霍光聞而嘉之曰:「公卿大臣當用有經術、明於大誼者。」由是不疑名重朝廷。後廷尉驗治,坐誣罔腰斬。〔馮述評〕國無二君,此際欲一人心、絕浮議,只合如此斷決。其說《春秋》雖不是,然時方推重經術,不斷章取義亦不足取信。《公羊》以衛輒拒父為尊祖,想當時儒者亦主此論。
新字:漢昭帝五年,有男子詣闕,自謂衛太子。詔公卿以下視之,皆莫敢発言。京兆尹雋不疑後至,叱従吏収縛,曰:「衛蒯聵出奔,衛輒拒而不納,《春秋》是之。太子得罪先帝,亡不即死,今来自詣,此罪人也。」遂送詔獄,上与霍光聞而嘉之曰:「公卿大臣当用有経術、明於大誼者。」由是不疑名重朝廷。後廷尉験治,坐誣罔腰斬。〔馮述評〕国無二君,此際欲一人心、絶浮議,只合如此断決。其説《春秋》雖不是,然時方推重経術,不断章取義亦不足取信。《公羊》以衛輒拒父為尊祖,想当時儒者亦主此論。
書き下し
漢の昭帝の五年、男子の闕に詣りて、自ら衛太子と謂う者有り。詔して公卿以下に之を視しむるに、皆な敢えて言を発する莫し。京兆尹雋不疑、後れて至り、従吏を叱して収縛せしめて曰く、「衛の蒯聵、出奔し、衛の輒、拒みて納れず、『春秋』は之を是とす。太子は先帝に罪を得、亡げて即ちに死せず。今、来たりて自ら詣る。此れ罪人なり」と。遂に詔獄に送る。上と霍光、聞きて之を嘉みして曰く、「公卿大臣は当に経術有り、大誼に明らかなる者を用うべし」と。是れに由りて不疑の名、朝廷に重し。後に廷尉、験治するに、誣罔に坐して腰斬せらる。〔馮述評〕国に二君無し。此の際、人心を一にし、浮議を絶たんと欲せば、只だ合に此くの如く断決すべし。其の『春秋』を説くは是ならずと雖も、時に方に経術を推重す。章を断ち義を取らずんば、亦た信を取るに足らず。『公羊』は衛輒の父を拒むを以て祖を尊ぶと為す。想うに当時の儒者も亦た此の論を主とせん。
現代語訳
漢の昭帝の五年、ある男が宮門に来て、自分は衛太子だと称した。詔して公卿以下に確かめさせたが、誰も口を開こうとしなかった。京兆尹の雋不疑が遅れて来て、従者を叱って縛らせて言った。「衛の蒯聵が国外に逃げたとき、衛の輒は拒んで受け入れませんでした。『春秋』はこれを是としています。太子は先帝に罪を得て、逃亡してすぐ死ななかったのです。今、来て自ら出頭したのは、罪人です」。そこで詔獄に送った。帝と霍光はこれを聞いてほめ、言った。「公卿大臣は、経学の術があり、大義に明るい者を用いるべきだ」。これによって雋不疑の名は朝廷で重んじられた。のちに廷尉が取り調べると、偽りをもって人を欺いた罪で腰斬となった。〔馮夢龍の評〕国に二人の君はない。この際、人心を一つにし、浮ついた議論を絶とうとするなら、このように断決するほかない。『春秋』についての彼の説は正しくはないが、当時は経学を重んじる時代で、文の一部を取って義を述べなければ、信用を得るに足りなかった。『公羊伝』は衛の輒が父を拒んだことを祖を尊ぶ行為とする。当時の儒者もこの説を主としていたのだろう。
解説
この章句が説くこと
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