智囊 / 剖疑・張說・李泌
對曰:「此大事,願陛下審圖之。臣始謂陛下聖德,當使海外蠻夷皆戴之如父,豈謂自有子而自疑之。自古父子相疑,未有不亡國覆家者。陛下記昔在彭原,建寧何故而誅?」上曰:「建寧叔實冤,肅宗性急,譖之者深耳。」泌曰:「臣昔以建寧之故辭官爵,誓不近天子左右。不幸今日又為陛下相,又睹諸事。臣在彭原,承恩無比,竟不敢言建寧之冤,及臨辭乃言之,肅宗亦悔而泣。先帝代宗自建寧死,常懷危懼,臣亦為先帝誦《黃台瓜辭》,以防讒構之端。」上曰:「朕固知之。」意色稍解,乃曰:「貞觀、開元,皆易太子,何故不亡?」對曰:「昔承乾太宗太子屢監國,托附者眾,藏甲又多,與宰相侯君集。謀反。事覺,太宗使其舅長孫無忌與朝臣數十鞫之,事狀顯白,然後集百官議之。
新字:対曰:「此大事,願陛下審図之。臣始謂陛下聖徳,当使海外蠻夷皆戴之如父,豈謂自有子而自疑之。自古父子相疑,未有不亡国覆家者。陛下記昔在彭原,建寧何故而誅?」上曰:「建寧叔実冤,粛宗性急,譖之者深耳。」泌曰:「臣昔以建寧之故辞官爵,誓不近天子左右。不幸今日又為陛下相,又睹諸事。臣在彭原,承恩無比,竟不敢言建寧之冤,及臨辞乃言之,粛宗亦悔而泣。先帝代宗自建寧死,常懐危懼,臣亦為先帝誦《黄台瓜辞》,以防讒構之端。」上曰:「朕固知之。」意色稍解,乃曰:「貞観、開元,皆易太子,何故不亡?」対曰:「昔承乾太宗太子屡監国,托附者衆,蔵甲又多,与宰相侯君集。謀反。事覚,太宗使其舅長孫無忌与朝臣数十鞫之,事状顕白,然後集百官議之。
書き下し
対えて曰く、「此れ大事なり。願わくは陛下、審らかに之を図りたまえ。臣、始め陛下の聖徳を謂えらく、当に海外の蛮夷をして皆な之を戴くこと父の如くならしむべし、と。豈に自ら子有りて自ら之を疑うを謂わんや。古より父子相疑いて、亡国覆家せざる者有らず。陛下、昔彭原に在りし時、建寧、何の故にか誅されしかを記したまうか」と。上曰く、「建寧叔は実に冤なり。粛宗は性急にして、之を譖する者深かりしのみ」と。泌曰く、「臣、昔、建寧の故を以て官爵を辞し、誓いて天子の左右に近づかず。不幸にして今日又た陛下の相と為り、又た諸事を睹る。臣、彭原に在りて、恩を承くること比い無きも、竟に敢えて建寧の冤を言わず、辞するに臨みて乃ち之を言う。粛宗も亦た悔いて泣く。先帝代宗、建寧の死せしより、常に危懼を懐く。臣も亦た先帝の為に『黄台瓜辞』を誦し、以て讒構の端を防ぐ」と。上曰く、「朕、固より之を知る」と。意色稍や解け、乃ち曰く、「貞観、開元、皆な太子を易えたり。何の故に亡びざるか」と。対えて曰く、「昔、承乾は太宗の太子にして屢ば監国し、托附する者衆く、甲を蔵すること又た多く、宰相侯君集と謀反す。事覚われ、太宗、其の舅長孫無忌をして朝臣数十と之を鞫せしむ。事状顕白にして、然る後に百官を集めて之を議す。
現代語訳
泌は答えた。「これは大事です。どうか陛下、念入りにお考えください。私は初め、陛下の聖徳によって、海外の蛮夷までもが皆、父のように陛下を敬うだろうと思っていました。まさか、ご自分に子がありながらご自分でそれを疑われるとは思いませんでした。昔から、父子が互いに疑って国を滅ぼし家を傾けなかった例はありません。陛下は昔、彭原におられたとき、建寧王がなぜ誅されたかを覚えておいでですか」。天子は言った。「建寧叔は実は冤罪だった。粛宗は気が短く、讒言した者の言葉が深かったのだ」。泌は言った。「私は昔、建寧王のことのために官爵を辞し、天子のそばには近づかないと誓いました。不幸にも今日また陛下の宰相となり、再びこうした事を目にしています。私は彭原にいたとき、比類ない恩寵を受けながら、ついに建寧王の冤罪を口に出せず、辞去するときになってはじめて言いました。粛宗もまた悔いて泣きました。先帝の代宗は、建寧王が死んでから、常に危ういと恐れを抱いておられました。私も先帝のために『黄台瓜辞』を詠み、讒言の端緒を防ごうとしたのです」。天子は言った。「朕はもとよりそれを知っている」。顔色が少しやわらぎ、続けて言った。「貞観と開元には、ともに太子を替えた。なぜ国は亡びなかったのか」。泌は答えた。「昔、承乾は太宗の太子で、しばしば監国を務め、身を寄せる者が多く、また武具を隠し持つことが多く、宰相の侯君集と謀反を起こしました。事が発覚すると、太宗はその舅の長孫無忌に朝臣数十人と取り調べさせました。事実がはっきりしてから、百官を集めて議したのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十八扨また諸人の批判には、さいげんなき法花坊機にあがらん、又はあぶられんとのさた也、奉行衆も此以前岩村田法華坊主、何にても證拠なきさへ以て御分国をはらはるゝ、まして是は大方の御成敗にては有間敷、いそぎ改め出し、日記に付、言上申べしとて書立を以て申上る、
-
『政談』諸役人職分支配を分つ事譬へは国境郷村の境山垂れ等分明ならす、度々所々の公事絶ゆることなし、是兼ねて其の所を支配する人明かに我か支配を知らぬ故なり、其の支配所を知りて事出つへき所は下より申し出てすとも、申し立てゝ御当家の御定めありたきことなり、御当家の御定め無きに遠国の事を在江戸の奉行之を捌かんとするとも詮方なし、これによりてかろきみのう撿使につかはせはかりもの格を取証拠無けれは捌かれぬ故小田原又は信玄又は信長公又は太閤なとのときの奉行の書物を証拠とす、これは先方の時分にて惣体の模様違ひたる時代を証拠に引くこと埓もなきことなり、或は室町家或は鎌倉或は往古の綸旨等を証拠に引くも年数遥かに隔りて埓もなきことは、是れ皆奉行をする面々兎角何ことも先例を引き付けたるくせにて引くましき先例を引く也、是れ皆御当家の御定めなき故也、
-
『政談』戶籍の事当時も紀州水戸にては人かへしあり、肥前なとにては出家にても他国へゆき十年かへらねは親類みな刑せらると承はる、薩摩其外九州は多くは国中の民を外へは出たさす、当時これある例なれは地頭の威勢を以て呼ひかへさんにはたやすくなるへきことなり、当時諸国の民耕作を厭ひ、米の飯を喜ひ、百姓を棄て商人になる故に衰微したる村々多きこと度々承ることなり、されは地頭のためにも実は甚だよきことなれとも、いつれも文盲なる故この合点行かす、世界は斯の如く成り下りたるなり、
-
尚書・周官古に學びて官に入り、事を議するに制を以てすれば、政乃ち迷わず。
-
『春秋左氏伝』昭公二十六年 王子朝の檄文天周を弔(あはれ)まず、王昏くして若(したが)はず、用って厥の位を愆(うしな)ふ。攜王(けいおう)命を奸(をか)す。諸侯之を替へて、王嗣を建て、用って郟鄏(こうじょく)に遷る。則ち是れ兄弟の能く力を王室に用ふるなり。惠王に至り、天周を靖んぜず、頹に禍心を生じ、叔帶に施(およ)ぶ。惠・襄難を辟け、王都を越え去る。則ち晉・鄭有りて、咸(みな)不端を黜け、以って王家を綏定す。則ち是れ兄弟の能く先王の命に率ふなり。定王の六年に在りて、秦人妖を降して曰く、『周其れ髭王有らん。亦た克く其の職を脩め、諸侯服享し、二世職を共にせん。王室其れ王位を間(うかが)ふもの有らん。諸侯圖らずして、其の亂災を受けん』と。靈王に至り、生まれながらにして髭有り。王甚だ神聖にして、諸侯に惡まるること無し。靈王・景王、克く其の世を終ふ。今王室亂る。單旗・劉狄、天下を剝亂し、壹に若はざるを行ひ、謂ふ、『先王何の常か之れ有らん。唯だ余が心の命ずる所なり。其れ誰か敢へて之を請はん』と。群不弔の人を帥ゐて、以って亂を王室に行ひ、侵欲厭くこと無く、規求度無し。
-
『墨子』耕柱公孟子曰く、「先人に則有り、三のみ」と。子墨子曰く、「孰れか先人にして則有ること三のみと曰わん。子は未だ人の先に有りて後に生ずるを知らざるなり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る