智囊 / 億中・邵雍
王安石罷相,呂惠卿參知政事。富鄭公見康節,有憂色。康節曰:「豈以惠卿兇暴過安石耶?」曰:「然。」康節曰:「勿憂。安石、惠卿本以勢利相合,今勢利相敵,將自為仇矣,不暇害他人也。」未幾,惠卿果叛安石。〔按〕荊公行新法,任用新進。溫公貽以書曰:「忠信之士,於公當路時雖齟齬可憎,後必得其力。諂諛之人,於今誠有順適之快,一旦失勢,必有賣公以自售者。」蓋指呂惠卿也。熙寧初,王宣徽之子名正甫,字茂直,監西京糧料院。一日約邵康節同吳處厚、王平甫食飯,康節辭以疾。明日,茂直來問康節辭會之故,康節曰:「處厚好議論,每譏刺執政新法;平甫者,介甫之弟,雖不甚主其兄,若人面罵之,則亦不堪矣。此某所以辭也。」茂直歎曰:「先生料事之審如此。昨處厚席間毀介甫,平甫作色,欲列其事於府。某解之甚苦,乃已。」嗚呼,康節以道德尊一代,平居出處,一飯食之間,其慎如此。
新字:王安石罷相,呂恵卿参知政事。富鄭公見康節,有憂色。康節曰:「豈以恵卿兇暴過安石耶?」曰:「然。」康節曰:「勿憂。安石、恵卿本以勢利相合,今勢利相敵,将自為仇矣,不暇害他人也。」未幾,恵卿果叛安石。〔按〕荊公行新法,任用新進。温公貽以書曰:「忠信之士,於公当路時雖齟齬可憎,後必得其力。諂諛之人,於今誠有順適之快,一旦失勢,必有売公以自售者。」蓋指呂恵卿也。熙寧初,王宣徽之子名正甫,字茂直,監西京糧料院。一日約邵康節同呉処厚、王平甫食飯,康節辞以疾。明日,茂直来問康節辞会之故,康節曰:「処厚好議論,毎譏刺執政新法;平甫者,介甫之弟,雖不甚主其兄,若人面罵之,則亦不堪矣。此某所以辞也。」茂直嘆曰:「先生料事之審如此。昨処厚席間毀介甫,平甫作色,欲列其事於府。某解之甚苦,乃已。」嗚呼,康節以道徳尊一代,平居出処,一飯食之間,其慎如此。
書き下し
王安石、相を罷め、呂恵卿、政事に参知す。富鄭公、康節に見えて憂色有り。康節曰く、「豈に恵卿の凶暴なること安石に過ぐるを以てか」と。曰く、「然り」と。康節曰く、「憂うること勿れ。安石、恵卿は本と勢利を以て相合す。今、勢利相敵すれば、将に自ら仇と為らんとす。他人を害するに暇あらざるなり」と。未だ幾ばくならずして、恵卿、果たして安石に叛く。〔按〕荊公、新法を行い、新進を任用す。温公、貽るに書を以てして曰く、「忠信の士は、公の路に当たる時に於いて齟齬して憎むべしと雖も、後に必ず其の力を得ん。諂諛の人は、今に於いて誠に順適の快有るも、一旦勢を失わば、必ず公を売りて以て自ら售らんとする者有らん」と。蓋し呂恵卿を指すなり。熙寧の初め、王宣徽の子、名は正甫、字は茂直、西京糧料院を監す。一日、邵康節を約し、呉処厚、王平甫と飯を食わんとするに、康節、辞するに疾を以てす。明日、茂直、来たりて康節に会を辞せし故を問う。康節曰く、「処厚は議論を好み、毎に執政の新法を譏刺す。平甫は介甫の弟なり。甚しくは其の兄を主とせずと雖も、人の面に之を罵るが若きは、則ち亦た堪えざらん。此れ某の辞せし所以なり」と。茂直、歎じて曰く、「先生の事を料ること審らかなること此くの如し。昨、処厚、席間に介甫を毀り、平甫、色を作し、其の事を府に列せんと欲す。某、之を解くこと甚だ苦しみ、乃ち已む」と。嗚呼、康節は道徳を以て一代に尊ばるるに、平居の出処、一飯食の間にも、其の慎むこと此くの如し。
現代語訳
王安石が宰相をやめ、呂恵卿が参知政事になった。富弼が邵雍(康節)に会ったとき、憂いの色を浮かべていた。康節は言った。「恵卿が安石よりも凶暴だからご心配なのですか」。富弼は「そのとおりだ」と答えた。康節は言った。「心配はいりません。安石と恵卿はもともと権勢と利益で結びついた仲です。今、その権勢と利益がぶつかり合えば、おのずから仇同士になります。他人を害するひまなどありません」。まもなく恵卿は、やはり安石に背いた。〔按語〕荊公(王安石)は新法を行い、新進の者を登用した。温公(司馬光)は書簡を送って言った。「忠信の士は、あなたが権力の座にある間は意見が食い違って憎らしく思えても、後にきっとあなたの力になります。へつらう者は、今は都合よく心地よくても、ひとたび失脚すれば、必ずあなたを売って自分の身の代わりにしようとする者が出ます」。これは呂恵卿を指したものである。熙寧の初め、王宣徽の子で名は正甫、字は茂直という者が、西京の糧料院を監督していた。ある日、邵康節を、呉処厚、王平甫と食事をする席に招いたが、康節は病を理由に断った。翌日、茂直が来て、会を断った理由を尋ねた。康節は言った。「処厚は議論好きで、いつも執政の新法をそしります。平甫は介甫(王安石)の弟で、兄をそれほど支持してはいませんが、人が面と向かって兄を罵れば、やはり耐えられないでしょう。これが私が断った理由です」。茂直は嘆じて言った。「先生の見通しはこれほど確かです。昨日、処厚が席で介甫を悪く言い、平甫は顔色を変えて、そのことを役所に訴えようとしました。私は必死でなだめて、ようやくおさまりました」。ああ、康節は道徳によって一代に尊ばれた人だが、ふだんの身の処し方は、一回の食事にすら、これほど慎重であった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『春秋左氏伝』襄公二十三年 乱に克つは権に在り四月、欒盈曲沃の甲を帥ゐ、魏獻子に因りて以って晝に絳に入る。初め、欒盈魏莊子を下軍に佐く。獻子焉に私す。故に之に因る。趙氏原・屏の難を以って欒氏を怨む。韓・趙方に睦まじ。中行氏伐秦の役を以って欒氏を怨み、而して固より范氏と和親す。知悼子少くして中行氏に聽く。程鄭公に嬖せらる。唯だ魏氏及び七輿大夫のみ之に與す。樂王鮒范宣子に侍坐す。或ひと告げて曰く、「欒氏至れり」と。宣子懼る。桓子曰く、「君を奉じて以って固宮に走らば、必ず害無からん。且つ欒氏は怨み多し。子は政を為す。欒氏は外よりし、子は位に在り、其の利多し。既に利權有り、又民の柄を執る、將た何をか懼れん。欒氏の得る所は、其れ唯だ魏氏のみか。而して強ひて取る可し。夫れ亂に克つは權に在り。子懈ること無かれ」と。公に姻喪有り。王鮒宣子をして墨縗冒絰し、二婦人輦して以って公に如かしめ、公を奉じて以って固宮に如く。范鞅魏舒を逆ふ。則ち列を成して既に乘り、將に欒氏を逆へんとす。趨り進みて曰く、「欒氏賊を帥ゐて以って入る。
-
尚書・盤庚上人は惟れ旧きを求め、器は旧きを求むるに非ず、惟れ新しきを求む。
-
『講孟余話』公孫丑下 第十一章「子、長者を絶つか、長者、子を絶つか」。行を留めんと欲する者、斉戒して宿を越え、然る後敢へて言ふ。而して孟子一言の応もなく、几に隠りて臥す。是れ俗論より云はば、長者子を絶つなり、孟子より客を絶つなり。然れども行を留むる者、慮ること子思に及ばず、是れ孟子の応ぜざる所以なれば、子長者を絶つなり、客より孟子を絶つなり。世間の事斯くの如き者甚だ多し。大抵俗論の見る所は形の上なり、君子の論ずる所は心なり。譬へば今我れ巧言令色を以て人に親しまんと欲す、人必ず我を容れず、是れ我仁鮮きを以てなり。然れば人我を容れざるに非ず、我人をして容れしめざるなり。是等を以て其の他を推知すべし。抑々余嘗て深く疑ふ、今の世臣子思の如き者なきか、君繆公の如き者なきか、又君臣共になきか、又君臣共にありて未だ相遇はざるか、臣君を絶つか、君臣を絶つか、是れ遂に知るべからざるなり。(第十四塲上)
-
論語・為政篇子曰く、君子は周して比せず、小人は比して周せず。
-
葉隠・聞書第二人に出会い候時は、その人の気質を早く呑込み、それぞれに応じて会釈あるべき事なり。その内、理堅く強勢の人には随分折れて取合い、角立たぬ様にして、間に相手になる上手(じょうず)の理を以て言い伏せ、その後は少しも遺恨を残さぬようにあるべし。これは胸の働き、詞(ことば)の働きなり。何某(なにがし)へ和尚出会の意見、口達(こうたつ)あり。
-
『家道訓』巻之六・用財下一親戚朋友に対し、財をやりとりする時、我が財を損ぜざるやうに、我が利運のごとくせんとすれば、快からざることあり。取るにも遣るにも、我が財を少し損失するをいとはざれば、何事なく、我も人もたがひに心よし。我が得分にする道理ながら、其の理非を論じ、少しの財のためにあらそひて、人をとがめて人の心をうしなふこと多し。人に財を貸して其のおひめをとるも、全く我が損失なからんとすれば、事ゆかずして行はれがたし。少し我が財を捨つれば、無事にしていたづかはしからず。是わづかのつひえ、家のため少しも害なし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る