智囊 / 億中・邵伯溫
初,蔡確之相也,神宗崩,哲宗立。邢恕自襄州移河陽,詣確,謀造定策事。及司馬光子康詣闕,恕召康詣河陽。邵伯溫謂康曰:「公休除喪,未見君,不宜枉道先見朋友。」康曰:「已諾之。」伯溫曰:「恕傾巧,或以事要公休;若從之,必為異日之悔。」康竟往,恕果勸康作書稱確,以為他日全身保家計。康、恕同年登科,恕又出光門下,康遂作書如恕言。恕蓋以康為光子,言確有定策功,世必見信。既而梁燾與劉安世共請誅確,且論恕罪,亦命康分析,康始悔之。
新字:初,蔡確之相也,神宗崩,哲宗立。邢恕自襄州移河陽,詣確,謀造定策事。及司馬光子康詣闕,恕召康詣河陽。邵伯温謂康曰:「公休除喪,未見君,不宜枉道先見朋友。」康曰:「已諾之。」伯温曰:「恕傾巧,或以事要公休;若従之,必為異日之悔。」康竟往,恕果勧康作書称確,以為他日全身保家計。康、恕同年登科,恕又出光門下,康遂作書如恕言。恕蓋以康為光子,言確有定策功,世必見信。既而梁燾与劉安世共請誅確,且論恕罪,亦命康分析,康始悔之。
書き下し
初め、蔡確の相たるや、神宗崩じ、哲宗立つ。邢恕、襄州より河陽に移り、確に詣りて、定策の事を造らんことを謀る。司馬光の子康、闕に詣るに及び、恕、康を河陽に召く。邵伯温、康に謂いて曰く、「公休、喪を除きて、未だ君に見えず。宜しく道を枉げて先ず朋友に見ゆべからず」と。康曰く、「已に之を諾せり」と。伯温曰く、「恕は傾巧なり。或いは事を以て公休に要めん。若し之に従わば、必ず異日の悔いと為らん」と。康、竟に往く。恕、果たして康に勧めて書を作り確を称えしめ、以て他日全身保家の計と為さしむ。康と恕とは同年の登科にして、恕は又た光の門下に出づ。康、遂に書を作ること恕の言の如し。恕、蓋し康を以て光の子と為し、確に定策の功有りと言わば、世必ず信ぜられんとするなり。既にして梁燾、劉安世と共に確を誅せんことを請い、且つ恕の罪を論ず。亦た康に命じて分析せしむ。康、始めて之を悔ゆ。
現代語訳
はじめ、蔡確が宰相であったとき、神宗が崩御して哲宗が即位した。邢恕は襄州から河陽に移り、蔡確を訪ねて、皇位継承を定めたという手柄をでっち上げようと謀った。司馬光の子の康が都に上ると、恕は康を河陽に呼び寄せた。邵伯温は康に言った。「公休(康の字)よ、あなたは喪が明けて、まだ天子にお目にかかっていない。道を曲げて先に友人に会うのはよくない」。康は「もう承知してしまった」と答えた。伯温は言った。「恕は小才が利いてずるい男だ。何かの用事であなたに無理を頼むかもしれない。従えば、必ず後で悔やむことになる」。康はそれでも出かけた。恕は案の定、康に勧めて蔡確をほめる書簡を書かせ、将来の保身の計にさせようとした。康と恕は同じ年の科挙に及第しており、恕はまた司馬光の門下から出た者でもあった。康はそこで恕の言うとおりに書簡を書いた。恕は、康が司馬光の子だから、確に皇位継承を定めた功があると言えば世間はきっと信じる、と考えたのである。やがて梁燾は劉安世とともに蔡確を誅するよう請い、あわせて恕の罪を論じた。康にも事情の弁明を命じ、康はそこで初めて後悔した。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』遠猶・陳瓘徽宗の初め、紹聖の弊を革めて以て靖国せんと欲し、是に於いて大いに言路を開く。衆議は瑤華の復位、司馬光らの叙官を以て当に先とすべき所と為す。陳瓘、時に諫省に在りて、独り以為えらく、「母后を幽廃し、故相を追貶するは、彼は皆な名を立てて以て行う、細故に非ざるなり。今、正復せんと欲せば、当に先ず誣罔を辨明し、非辜を昭雪し、造意の人を誅責し、然る後に詔を発し、礼を以て之を行うべし。庶わくは後患無からん。宜しく速やかならんことを欲して悔を貽すべからず」と。朝議は公論の久しく鬱せしを以て、速やかに人情を快くせんことを欲し、遽かに之を施行す。崇寧の間に至り、蔡京事を用い、悉く建中の政を改む。人皆な公の遠識に服す。
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