長短経 / 懼戒
〔張華外鎭當徵為尚書。令馮紞疾之、待帝、從容論魏晉故事、因曰、「臣嘗謂鍾㑹之反、頗由太祖。」帝勃然、曰、「何言也?」紞曰、「臣以為夫善御者、必識六轡盈縮之間、善治者、必審官方控帯之宜。是故漢髙八王、以寵過夷滅、光武諸將、以損益克終。非上有仁暴之異、下有愚智之殊、盖抑揚予奪使之然歟。鍾㑹才見有限、而太祖奬誘太過、嘉其謀猷、盛其名位、授以重勢、故㑹自謂算無遺䇿、功在不賞、輈張利害、遂搆凶逆耳。向太祖録其小能、節以大禮、抑之以權勢、納之以軌度、則逆心無由而生、亂事無階而成也。」世祖曰、「然。」紞稽首曰、「陛下既然愚臣之言、思堅氷之道、無令如㑹之徒復致覆敗。」世祖曰、「當今豈有如㑹者乎?」紞曰、「陛下謀謨之臣、捴戎馬之任者、皆在陛下聖恩耳。」世祖黙然、俄而徵華免官也。〕
新字:〔張華外鎮当徴為尚書。令馮紞疾之、待帝、従容論魏晋故事、因曰、「臣嘗謂鍾会之反、頗由太祖。」帝勃然、曰、「何言也?」紞曰、「臣以為夫善御者、必識六轡盈縮之間、善治者、必審官方控帯之宜。是故漢高八王、以寵過夷滅、光武諸将、以損益克終。非上有仁暴之異、下有愚智之殊、盖抑揚予奪使之然歟。鍾会才見有限、而太祖奨誘太過、嘉其謀猷、盛其名位、授以重勢、故会自謂算無遺策、功在不賞、輈張利害、遂搆凶逆耳。向太祖録其小能、節以大礼、抑之以権勢、納之以軌度、則逆心無由而生、乱事無階而成也。」世祖曰、「然。」紞稽首曰、「陛下既然愚臣之言、思堅氷之道、無令如会之徒復致覆敗。」世祖曰、「当今豈有如会者乎?」紞曰、「陛下謀謨之臣、捴戎馬之任者、皆在陛下聖恩耳。」世祖黙然、俄而徴華免官也。〕
書き下し
〔張華、外鎮より当に徴されて尚書と為らんとす。令馮紞之を疾む。帝に侍し、従容として魏晋の故事を論じ、因りて曰く「臣嘗て謂えらく、鍾会の反は、頗る太祖に由る」と。帝勃然として曰く「何の言ぞや」と。紞曰く「臣以為えらく、夫れ善く御する者は、必ず六轡盈縮の間を識り、善く治むる者は、必ず官方控帯の宜しきを審らかにす。是の故に漢高の八王は、寵過ぎたるを以て夷滅し、光武の諸将は、損益を以て克く終う。上に仁暴の異有り、下に愚智の殊有るに非ず。蓋し抑揚予奪之をして然らしむるか。鍾会は才見に限り有り、而して太祖の奨誘太だ過ぎ、其の謀猷を嘉し、其の名位を盛んにし、授くるに重勢を以てす。故に会は自ら謂えらく、算に遺策無く、功は賞せられざるに在り、と。輈張して利害し、遂に凶逆を搆うるのみ。向に太祖其の小能を録し、節するに大礼を以てし、之を抑うるに権勢を以てし、之を納るるに軌度を以てせば、則ち逆心由りて生ずること無く、乱事階りて成ること無きなり」と。世祖曰く「然り」と。紞稽首して曰く「陛下既に愚臣の言を然りとせば、堅氷の道を思い、会の如き徒をして復た覆敗を致さしむること無かれ」と。世祖曰く「当今、豈に会の如き者有らんや」と。紞曰く「陛下の謀謨の臣、戎馬の任を総ぶる者は、皆陛下の聖恩に在るのみ」と。世祖黙然たり。俄かにして華を徴して官を免ず。〕
現代語訳
〔張華は地方の鎮守から呼び戻されて尚書になろうとしていた。馮紞はこれを嫉み、晋の武帝のそばに仕えて、ゆったりと魏・晋の昔話を論じながら言った。「私はかねがね、鍾会の反乱はかなり太祖司馬昭に原因があると思っております」。武帝は顔色を変えて「何を言うのか」と言った。馮紞は言った。「上手な御者は、六本の手綱を緩めたり締めたりする加減を心得ており、上手に治める者は、官の配置と統制の加減をよく見極めるものです。だから漢の高祖の八人の王は寵愛が過ぎて滅ぼされ、光武帝の諸将は加減されたので最後まで全うしました。上に仁と暴の違いがあり、下に愚と智の違いがあったからではなく、抑えたり引き上げたり、与えたり奪ったりの加減がそうさせたのです。鍾会は才も見識も限りがあったのに、太祖の励ましと引き立てが過ぎ、その謀略を褒め、名と位を盛んにし、重い勢力を授けました。だから鍾会は、自分の計算には抜かりがなく、功は賞しきれないほどだと思い込み、のぼせ上がって利害を計り、ついに反逆を企てたのです。もし太祖がその小さな才能を認めつつ大きな礼で節度を持たせ、権勢で抑え、決まりの中に収めていれば、逆心は生まれず、乱は起こる足がかりがなかったでしょう」。武帝は「そのとおりだ」と言った。馮紞は額を地につけて言った。「陛下が私の言葉をもっともと思われるなら、霜を踏めばやがて堅い氷が来るという道を思い、鍾会のような者にまた覆敗を招かせないでください」。武帝が「いま鍾会のような者がいるだろうか」と言うと、馮紞は「陛下の謀を担う臣で、軍の任を総べる者は、皆陛下のご恩のおかげでそこにいるのです」と言った。武帝は黙り込んだ。まもなく張華を呼び戻して官を免じた。〕
解説
この章句が説くこと
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