智囊 / 億中・黃權・王累・鄭度
初,劉璋遣人迎先主。主簿黃權怒而言曰:「厝火積薪,其勢必焚;及溺呼船,悔將無及。左將軍有驍名,今迎到,欲以部曲遇之,則不滿其心;欲以賓客待之,則一國不容二君。若客有泰山之安,則主有纍卵之危,可且閉關以待河清。」從事王累自倒懸於州門而諫,曰:「兩高不可重,兩大不可容,兩貴不可雙,兩勢不可同。重、容、雙、同,必爭其功!」皆弗聽。從事鄭度好奇計,從容說曰:「左將軍懸軍襲我,兵不滿萬,士眾未附,野谷是資,軍無輜重。其計莫若盡驅巴西、梓潼民,由涪水以西,其倉廩野谷一皆燒除,高壘深溝,靜以待之。彼至請戰,勿許。久無所資,不過百日,必將自走。走而擊之,此成擒耳。」先主聞而惡之,謂法正曰:「度計若行,吾事去矣。」正曰:「終不能用,無可憂也。」卒如正料,璋謂其群下曰:「吾聞驅敵以安民,未聞驅民以避敵也。」於是黜度,不用其計。先主入成都,召度謂曰:「向用卿計,孤之首懸於蜀門矣。」引為賓客,曰:「此吾廣武君也。」
新字:初,劉璋遣人迎先主。主簿黄権怒而言曰:「厝火積薪,其勢必焚;及溺呼船,悔将無及。左将軍有驍名,今迎到,欲以部曲遇之,則不満其心;欲以賓客待之,則一国不容二君。若客有泰山之安,則主有纍卵之危,可且閉関以待河清。」従事王累自倒懸於州門而諫,曰:「両高不可重,両大不可容,両貴不可双,両勢不可同。重、容、双、同,必争其功!」皆弗聴。従事鄭度好奇計,従容説曰:「左将軍懸軍襲我,兵不満万,士衆未附,野谷是資,軍無輜重。其計莫若尽駆巴西、梓潼民,由涪水以西,其倉廩野谷一皆焼除,高塁深溝,静以待之。彼至請戦,勿許。久無所資,不過百日,必将自走。走而撃之,此成擒耳。」先主聞而悪之,謂法正曰:「度計若行,吾事去矣。」正曰:「終不能用,無可憂也。」卒如正料,璋謂其群下曰:「吾聞駆敵以安民,未聞駆民以避敵也。」於是黜度,不用其計。先主入成都,召度謂曰:「向用卿計,孤之首懸於蜀門矣。」引為賓客,曰:「此吾広武君也。」
書き下し
初め、劉璋、人を遣わして先主を迎う。主簿黄権、怒りて言いて曰く、「火を厝きて薪に積めば、其の勢い必ず焚く。溺るるに及びて船を呼ぶとも、悔いて将に及ぶなけん。左将軍には驍名有り、今迎え到らば、部曲を以て之を遇せんと欲すれば則ち其の心を満たさず、賓客を以て待せんと欲すれば則ち一国に二君を容れず。若し客に泰山の安有らば、則ち主に累卵の危有り。且く関を閉じて以て河清を待つべし」と。従事王累は自ら州門に倒懸して諫めて曰く、「両高は重ぬべからず、両大は容るべからず、両貴は双ぶべからず、両勢は同じくすべからず。重・容・双・同は、必ず其の功を争わん」と。皆な聴かず。従事鄭度は奇計を好み、従容として説きて曰く、「左将軍は軍を懸けて我を襲い、兵は万に満たず、士衆は未だ附かず、野谷を資とし、軍に輜重無し。其の計は、巴西・梓潼の民を尽く駆り、涪水より以西、其の倉廩野谷を一に皆な焼除し、高壘深溝にして、静かに以て之を待つに如かず。彼至りて戦を請わば、許すこと勿かれ。久しく資る所無くば、百日に過ぎずして必ず将に自ら走らんとす。走るを撃たば、此れ擒にするのみ」と。先主聞きて之を悪み、法正に謂いて曰く、「度の計若し行われば、吾が事去らん」と。正曰く、「終に用うる能わず、憂うる無し」と。卒に正の料る如く、璋は其の群下に謂いて曰く、「吾、敵を駆りて以て民を安んずるを聞くも、未だ民を駆りて以て敵を避くるを聞かず」と。是に於いて度を黜け、其の計を用いず。先主、成都に入り、度を召して謂いて曰く、「向に卿の計を用いば、孤の首は蜀門に懸けられしならん」と。引きて賓客と為し、曰く、「此れ吾が広武君なり」と。
現代語訳
はじめ、劉璋は人を遣わして先主(劉備)を迎え入れようとした。主簿の黄権は怒って言った。「火を薪の上に置けば、その勢いで必ず燃える。溺れてから船を呼んでも、悔いても間に合いません。左将軍(劉備)は勇名があり、迎え入れてから部下として扱おうとしても心を満たさず、客人として待遇しようとすれば、一国に二人の君主を容れることはできません。もし客に泰山のような安定があれば、主人には累卵のような危うさがあります。しばらく関を閉じて黄河が澄むのを待つべきです」。従事の王累は自ら州の門に逆さにぶら下がって諫めた。「二つの高いものは重ねられず、二つの大きいものは容れられず、二つの貴いものは並べられず、二つの勢いは同じにできません。重ね、容れ、並べ、同じくすれば、必ずその功を争うでしょう」。皆聞き入れなかった。従事の鄭度は奇策を好み、落ち着いて説いた。「左将軍は軍を遠く離して我々を襲い、兵は一万に満たず、兵士は従っておらず、野の穀物を資源とし、軍に輜重もありません。計略としては、巴西・梓潼の民をすべて追い立て、涪水より西の倉と野の穀物をすべて焼き払い、高い砦と深い堀を築いて、静かに待つのがよいでしょう。彼が来て戦いを求めても許さないことです。長く頼る物がなければ、百日と経たずに必ず自ら逃げ出します。逃げるのを撃てば、捕らえることができます」。先主はこれを聞いて嫌がり、法正に言った。「度の計が行われたら、私の事は終わりだ」。正は言った。「結局採用されないでしょう、心配いりません」。結局、正の見立てどおり、璋は部下に言った。「私は敵を追い払って民を安んじるとは聞いたが、民を追い立てて敵を避けるとは聞いたことがない」。そこで度を退け、その計を用いなかった。先主は成都に入ると、度を呼んで言った。「以前に卿の計を採っていたら、私の首は蜀の門に懸けられていただろう」。度を引き立てて賓客とし、「この人は私の広武君だ」と言った。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』親士是の故に其の難き所を為す者は、必ず其の欲する所を得ん。未だ其の欲する所を為して、其の惡む所を免るる者を聞かざるなり。是の故に偪臣は君を傷り、諂下は上を傷る。君には必ず弗弗の臣有り、上には必ず詻詻の下有り。分議する者は延延たり、而して支輔する者は詻詻たり、焉ち以て長く生きて國を保つ可し。臣下、其の爵位を重んじて言わず、近臣は則ち喑く、逺臣は則ち唫し、怨み民心に結び、諂䛕、側に在り、善議、障塞せらるれば、則ち國危うし。桀紂は其れ天下の士無きを以てせざるか。其の身を殺して天下を喪う。故に曰く、「國の寳を歸すは、賢を獻じて士を進むるに若かず」と。
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『春秋左氏伝』成公六年 善鈞しければ眾に從ふ夏四月丁丑、晉新田に遷る。六月、鄭の悼公卒す。子叔聲伯晉に如く。宋を伐たんことを命ぜらる。秋、孟獻子・叔孫宣伯、宋を侵す。晉の命なり。楚の子重鄭を伐つ。鄭晉に從ふが故なり。冬、季文子晉に如く。遷るを賀するなり。晉の欒書鄭を救ひ、楚の師と繞角に遇ふ。楚の師還る。晉の師遂に蔡を侵す。楚の公子申・公子成、申・息の師を以て蔡を救ひ、諸を桑隧に禦ぐ。趙同・趙括戰はんと欲し、武子に請ふ。武子將に之を許さんとす。知莊子・范文子・韓獻子諫めて曰く、「不可なり。吾來りて鄭を救ふ。楚の師我を去る。吾遂に此に至る。是れ戮を遷すなり。戮して已まず、又楚の師を怒らす。戰へば必ず克たず。克つと雖も令からず。師を成して以て出で、而して楚の二縣を敗るも、何の榮か之れ有らん。若し敗る能はずんば、辱為ること已甚し。還るに如かず」と。乃ち遂に還る。是に於て軍師の戰はんと欲する者眾し。或ひと欒武子に謂ひて曰く、「聖人は眾と欲を同じくす。是を以て事を濟す。子盍ぞ眾に從はざる。子は大政為り、將に民に酌む者なり。子の佐十一人、其の戰ふを欲せざる者は、三人のみ。戰ふを欲する者眾しと謂ふべし。商書に曰く、『三人占へば、二人に從ふ』と。眾きが故なり」と。武子曰く、「善鈞しければ眾に從ふ。夫れ善は、眾の主なり。三卿主為り、眾しと謂ふべし。之に從ふ、亦た可ならずや」と。
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『春秋左氏伝』僖公十五年 韓原の戦い壬戌、韓原に戰ふ。晉の戎馬濘に還りて止まる。公慶鄭を號ぶ。慶鄭曰く、「諫に愎り卜に違ふ、固より敗を是れ求む、又何ぞ逃れん」と。遂に之を去る。梁由靡韓簡を御し、虢射右と為り、秦伯を輅へ、將に之を止めんとす。鄭公を救ふを以て之を誤らしめ、遂に秦伯を失ふ。秦晉侯を獲て以て歸る。晉の大夫首を反し舍を拔きて、之に從ふ。秦伯使ひして辭せしめて曰く、「二三子何ぞ其れ慼へるや。寡人の君に從ひて西するや、亦た晉の妖夢を是れ踐むのみ、豈に敢へて以て至らんや」と。晉の大夫三拜稽首して曰く、「君は后土を履みて皇天を戴く。皇天后土、實に君の言を聞く、群臣敢へて下風に在らん」と。穆姬晉侯の將に至らんとするを聞き、大子罃・弘と女簡・璧とを以て、臺に登りて薪を履む。免服衰絰を以て逆へしめ、且つ告げしめて曰く、「上天災を降し、我が兩君をして玉帛を以て相見えずして、戎を興すを以てせしむ。若し晉君朝に以て入らば、則ち婢子夕べに以て死せん。夕べに以て入らば、則ち朝に以て死せん。唯だ君之を裁け」と。乃ち諸を靈臺に舍らしむ。
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史記 宋微子世家微子開は、殷の帝乙の首子にして帝紂の庶兄なり。紂既に立ち、明らかならず、政に淫乱す。微子数々諫むるも、紂聴かず。祖伊周の西伯昌の徳を修め、黎国を滅ぼすを以て、禍の至らんことを懼れ、以て紂に告ぐるに及ぶ。紂曰く、「我が生は命天に在る有らずや。是れ何をか能く為さん」と。是に於て微子、紂の終に諫むべからざるを度り、之に死せんと欲し、及び去らんとするも、未だ自ら決すること能はず。乃ち太師・少師に問ひて曰く、「殷は治政有らず、四方を治めず。我が祖遂に上に陳ぶ。紂酒に沈湎し、婦人是れ用ひ、湯の徳を下に乱敗す。殷既に小大好んで草窃姦宄し、卿士師師度に非ず、皆罪辜有り、乃ち維れ獲ること无し。小民乃ち并び興り、相敵讎と為る。今殷其れ典喪へり。水を渉るに津涯无きが若し。殷遂に喪ひ、越に今に至る」と。曰く、「太師、少師、我其れ発して出で往かんか。吾が家喪に保たんか。今女故无くして予に告ぐ。顛躋(てんせい)せば、之を如何せん」と。太師若(かく)のごとく曰く、「王子、天篤く菑(わざはひ)を下して殷国を亡ぼす。乃ち畏るべきを畏れず、老長を用ひず。今殷の民乃ち神祇の祀を陋淫す。今誠に国を治むるを得ば、国治まりて身死すとも恨みず。死を為して、終に治むるを得ずんば、去るに如かず」と。遂に亡ぐ。箕子は、紂の親戚なり。紂始めて象箸を為る。箕子嘆じて曰く、「彼象箸を為らば、必ず玉桮を為らん。桮を為らば、則ち必ず遠方の珍怪の物を思ひて之を御せん。輿馬宮室の漸、此より始まり、振ふべからず」と。紂淫泆を為す。箕子諫むるも、聴かず。人或いは曰く、「以て去るべし」と。箕子曰く、「人臣為りて諫めて聴かれずして去るは、是れ君の悪を彰らかにして自ら民に説(よろこ)ばるるなり。吾為すに忍びざるなり」と。乃ち髪を被り詳狂して奴と為る。遂に隠れて琴を鼓きて以て自ら悲しむ。故に之を伝へて箕子操と曰ふ。王子比干は、亦た紂の親戚なり。
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史記 趙世家十九年、斉・宋と平陸に会し、燕と阿に会す。二十年、魏栄椽を献ず。因りて以て檀台と為す。二十一年、魏我が邯鄲を囲む。二十二年、魏の恵王我が邯鄲を抜く。斉も亦魏を桂陵に敗る。二十四年、魏我に邯鄲を帰し、魏と漳水の上に盟ふ。秦我が藺を攻む。二十五年、成侯卒す。公子紲、太子粛侯と立つを争ふ。紲敗れて亡げて韓に奔る。粛侯元年、晋君の端氏を奪ひ、徙して屯留に処らしむ。二年、魏の恵王と陰晋に遇ふ。三年、公子范邯鄲を襲ふも、勝たずして死す。四年、天子に朝す。六年、斉を攻め、高唐を抜く。七年、公子刻魏の首垣を攻む。十一年、秦の孝公、商君をして魏を伐たしめ、其の将公子卬を虜にす。趙魏を伐つ。十二年、秦の孝公卒し、商君死す。十五年、寿陵を起こす。魏の恵王卒す。十六年、粛侯大陵に游び、鹿門より出づ。大戊午馬を扣へて曰く、「耕事方に急なり。一日作さずんば、百日食らはず」と。粛侯車を下りて謝す。十七年、魏の黄を囲むも、克たず。長城を築く。十八年、斉・魏我を伐つ。我河水を決して之に灌ぐ。兵去る。二十二年、張儀秦に相たり。趙疵秦と戦ひ、敗る。秦疵を河西に殺し、我が藺・離石を取る。二十三年、韓挙斉・魏と戦ひ、桑丘に死す。二十四年、粛侯卒す。秦・楚・燕・斉・魏、鋭師各々万人を出だして来りて葬に会す。子武霊王立つ。武霊王元年、陽文君趙豹相たり。梁の襄王と太子嗣、韓の宣王と太子倉、来りて信宮に朝す。武霊王少く、未だ政を聴くこと能はず。博聞の師三人、左右の司過三人あり。政を聴くに及び、先づ先王の貴臣肥義に問ひ、其の秩を加ふ。国の三老の年八十なるものには、月ごとに其の礼を致す。三年、鄗に城く。四年、韓と区鼠に会す。
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史記 楽書上は朝廷より、下は人民に至るまで、以て歓喜を接し、殷勤を合するを得、此の和説に非ずんば通ぜず、解沢流れず、亦各々一世の化、時を度るの楽なり、何ぞ必ずしも華山の騄耳にして而る後に遠きを行かんや」と。二世之を然りとす。高祖、沛を過りて三侯の章を詩し、小児をして之を歌はしむ。高祖崩じ、沛をして四時に宗廟に歌舞するを得しむ。孝恵・孝文・孝景は増更する所無く、楽府に於いて常を習ひ旧を肄ふのみ。今上即位するに至り、十九章を作り、侍中李延年をして其の声を次序せしめ、拝して協律都尉と為す。一経に通ずるの士も独り其の辞を知る能はず、皆五経の家を集会し、相与に共に講習して之を読み、乃ち能く其の意を通知す、多く爾雅の文なり。漢家常に正月上辛を以て太一を甘泉に祠り、昏時を以て夜祠り、明に到りて終はる。常に流星の祠壇の上を経る有り。僮男僮女七十人をして俱に歌はしむ。春は青陽を歌ひ、夏は朱明を歌ひ、秋は西暤を歌ひ、冬は玄冥を歌ふ。世に多く有り、故に論ぜず。又嘗て神馬を渥洼の水中に得て、復た次して以て太一の歌と為す。歌曲に曰く、「太一貢ぎて天馬下る、赤汗に霑ひて沫赭を流す。騁せて容与として万里を跇ゆ、今安んぞ匹せん、龍を友と為す」と。後に大宛を伐ちて千里の馬を得、馬の名は蒲梢、次して作りて以て歌と為す。歌詩に曰く、「天馬来たる、西極よりす。万里を経て有徳に帰す。霊威を承けて外国を降し、流沙を渉りて四夷服す」と。中尉汲黯進みて曰く、「凡そ王者の楽を作るは、上は以て祖宗を承け、下は以て兆民を化す。今陛下馬を得て、詩して以て歌と為し、宗廟に協す、先帝百姓豈に能く其の音を知らんや」と。上黙然として説ばず。丞相公孫弘曰く、「黯は聖制を誹謗す、当に族すべし」と。凡そ音の起こるは、人心より生ずるなり。人心の動くは、物之をして然らしむるなり。
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