智囊 / 億中・曹操
〔馮述評〕操明於翦備,而漢中之役,志盈得隴,縱備得蜀,不用司馬懿,劉曄之計,何也?或者有天意焉?操既克張魯,司馬懿曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附;今破漢中,益州震動。因而壓之,勢必瓦解。」劉曄亦以為言,操不從。居七日,蜀降者言:「蜀中一日數十驚,守將雖斬之而不能安也。」操問曄曰:「今可擊否?」曄曰:「今已小定,未可犯矣。」操退,備遂並有漢中。安定與羌胡密邇,太守毋丘興將之官,公戒之曰:「羌胡欲與中國通,自當遣人來,慎勿遣人往!善人難得,必且教羌人妄有請求,因以自利。不從,便為失異俗意;從之則無益。」興佯諾去。及抵郡,輒遣校尉范陵至羌,陵果教羌使自請為屬國都尉。公笑曰:「吾預知當爾,非聖也,但更事多耳。」
新字:〔馮述評〕操明於翦備,而漢中之役,志盈得隴,縦備得蜀,不用司馬懿,劉曄之計,何也?或者有天意焉?操既克張魯,司馬懿曰:「劉備以詐力虜劉璋,蜀人未附;今破漢中,益州震動。因而圧之,勢必瓦解。」劉曄亦以為言,操不従。居七日,蜀降者言:「蜀中一日数十驚,守将雖斬之而不能安也。」操問曄曰:「今可撃否?」曄曰:「今已小定,未可犯矣。」操退,備遂並有漢中。安定与羌胡密邇,太守毋丘興将之官,公戒之曰:「羌胡欲与中国通,自当遣人来,慎勿遣人往!善人難得,必且教羌人妄有請求,因以自利。不従,便為失異俗意;従之則無益。」興佯諾去。及抵郡,輒遣校尉范陵至羌,陵果教羌使自請為属国都尉。公笑曰:「吾預知当爾,非聖也,但更事多耳。」
書き下し
〔馮述評〕操は備を翦るに明らかなれど、漢中の役にして、志は隴を得て盈ち、備を縦ちて蜀を得しめ、司馬懿・劉曄の計を用いざるは、何ぞや。或いは天意有るか。操、既に張魯に克つ。司馬懿曰く、「劉備は詐力を以て劉璋を虜にし、蜀人は未だ附かず。今、漢中を破らば、益州は震動せん。因りて之を圧さば、勢い必ず瓦解せん」と。劉曄も亦た以て言う。操従わず。居ること七日、蜀の降者言う、「蜀中は一日に数十たび驚き、守将は之を斬ると雖も安んずる能わず」と。操、曄に問いて曰く、「今、撃つべきか」と。曄曰く、「今は已に小しく定まる、未だ犯すべからず」と。操退き、備は遂に漢中を並せ有つ。安定は羌胡と密邇す。太守毋丘興、将に官に之かんとするに、公之を戒めて曰く、「羌胡は中国と通ぜんと欲せば、自ら当に人を遣わして来たるべし。慎んで人を遣わして往くこと勿かれ。善人は得難く、必ず且に羌人に妄りに請求有るを教えて、因りて以て自利せん。従わざれば、便ち異俗の意を失う、之に従わば則ち益無し」と。興は佯って諾して去る。郡に抵るに及び、輒ち校尉范陵を遣わして羌に至らしむ。陵は果たして羌に教えて自ら請いて属国都尉と為らしむ。公笑いて曰く、「吾が預め当に爾るべきを知るは、聖なるに非ず、但だ事を更ること多きのみ」と。
現代語訳
〔馮夢龍の評〕曹操は劉備を討つことについては明敏であったが、漢中の戦いでは、隴を得て満足し、劉備をそのまま蜀に定着させてしまい、司馬懿と劉曄の策を用いなかったのはなぜか。あるいは天意があったのだろうか。曹操が張魯に勝ったあと、司馬懿は言った。「劉備は騙しと力で劉璋を捕らえましたが、蜀の人々はまだ従っていません。今、漢中を破ったので、益州は動揺しています。この勢いで押さえれば、必ず崩れます」。劉曄も同様に言ったが、曹操は従わなかった。七日がたち、蜀から降った者が言った。「蜀の中は一日に数十回も騒ぎ、守将が斬っても落ち着きません」。曹操は劉曄に尋ねた。「今撃てるか」。曄は言った。「今はもう少し落ち着きました。攻めるべきではありません」。曹操は引き揚げ、劉備はそのまま漢中を併せ持った。安定郡は羌胡と隣り合っていた。太守の毋丘興が任地に赴こうとすると、公は戒めて言った。「羌胡が中国と通じたいなら、自ら使者を送ってくるはずだ。決してこちらから人を送ってはならない。善人は得がたく、きっと羌人にむやみな要求を教えて、それで私利を図るだろう。従わなければ異民族の意向を失う。従えば得にならない」。興はうわべは承知して去った。郡に着くと、すぐに校尉の范陵を羌に遣わした。陵はやはり羌に、自分たちで属国都尉の地位を請うよう教えた。公は笑って言った。「私が前もってこうなると知っていたのは、聖人だからではない。ただ経験が多いだけだ」。
解説
この章句が説くこと
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『政談』遊女河原者の種姓の分事並に乞食の締りの事某幼少のときより田舎へ参り、十三年上総の国に住みて身にも様々の難義をし、又様々のことを見聞く上田舎者にて無骨なる故、人の得云はぬかやうなることをも主人に云かひて云ひたるなり、十三年を経て御城下に帰りて見れば、御城下の風俗つくんに替りたるを見て書籍の道理をも考へ合せ少しはものゝこゝろも付きたるやうなり、初めより御城下に住み続けたらば自然と移る風俗なる故うはゝとして何の心も付くまじきと存じ、実に御城下に常に住む高官世禄の人は何のこゝろいたりもなく、又風俗につれて物をも得云はぬも是亦余儀も無きことなりと存じ候なり、
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