智囊 / 億中・姚崇
魏知古起諸吏,為姚崇所引用,及同升也,崇頗輕之。無何,知古拜吏部尚書,知東道選事。崇二子並分曹洛邑,會知古至,恃其蒙恩,頗顧請托。知古歸,悉以聞。上召崇,從容謂曰:「卿子才乎?皆何官也?又安在。」崇揣知上意,因奏曰:「臣有三子,兩人分司東都矣,其為人諂道者即為道士,則士大夫攻乎異端者息矣。」
新字:魏知古起諸吏,為姚崇所引用,及同升也,崇頗軽之。無何,知古拝吏部尚書,知東道選事。崇二子並分曹洛邑,会知古至,恃其蒙恩,頗顧請托。知古帰,悉以聞。上召崇,従容謂曰:「卿子才乎?皆何官也?又安在。」崇揣知上意,因奏曰:「臣有三子,両人分司東都矣,其為人諂道者即為道士,則士大夫攻乎異端者息矣。」
書き下し
魏知古、諸吏より起こり、姚崇の引用する所と為る。同に升るに及び、崇は頗る之を軽んず。無何にして、知古は吏部尚書を拝し、東道の選事を知る。崇の二子は並びに洛邑に分曹す。会たま知古至り、其の蒙恩を恃みて、頗る請托を顧みる。知古帰りて、悉く以て聞す。上、崇を召し、従容として謂いて曰く、「卿の子は才なるか。皆な何の官なるか。又た安くに在るか。」崇、上の意を揣り知り、因りて奏して曰く、「臣に三子有り。両人は東都に分司す。其の為人は諂道なる者は即ち道士と為れば、則ち士大夫の異端を攻むる者は息まん。」
現代語訳
魏知古は下級の役人から身を起こし、姚崇に引き立てられた。ともに高位に昇ると、姚崇は魏知古をかなり軽んじた。まもなく魏知古は吏部尚書となり、東道の人事を担当した。姚崇の二人の息子はともに洛陽の役所に配属されていた。ちょうど魏知古が来ると、息子たちは姚崇の恩を頼みに、かなり頼みごとを持ちかけた。魏知古は帰ってから、すべてを皇帝に報告した。皇帝は姚崇を召し、ゆったりとたずねた。「卿の子は才があるか。皆どんな官職か。どこにいるのか。」姚崇は皇帝の意図を察し、そこで奏上した。「私には三人の子がおります。二人は東都の分司におります。その人柄は、へつらいの道を歩む者です。もし道士にすれば、士大夫が異端を攻撃する声も収まりましょう。」
解説
この章句が説くこと
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