智囊 / 知微・郈成子
郈成子為魯聘於晉,過衛,右宰谷臣止而觴之,陳樂而不樂,酒酣而送之以璧。顧反,過而弗辭。其僕曰:「向者右宰谷臣之觴吾子也甚歡,今侯渫過而弗辭。」郈成子曰:「夫止而觴我,與我歡也;陳樂而不樂,告我憂也;酒酣而送我以璧,寄之我也。若是觀之,衛其有亂乎?」倍衛三十里,聞寧喜之難作,右宰谷臣死之。還車而臨,三舉而歸;至,使人迎其妻子,隔宅而異之,分祿而食之;其子長而反其璧。孔子聞之,曰:「夫知可以微謀,仁可以托財者,其郈成子之謂乎?」
新字:郈成子為魯聘於晋,過衛,右宰谷臣止而觴之,陳楽而不楽,酒酣而送之以璧。顧反,過而弗辞。其僕曰:「向者右宰谷臣之觴吾子也甚歓,今侯渫過而弗辞。」郈成子曰:「夫止而觴我,与我歓也;陳楽而不楽,告我憂也;酒酣而送我以璧,寄之我也。若是観之,衛其有乱乎?」倍衛三十里,聞寧喜之難作,右宰谷臣死之。還車而臨,三舉而帰;至,使人迎其妻子,隔宅而異之,分禄而食之;其子長而反其璧。孔子聞之,曰:「夫知可以微謀,仁可以托財者,其郈成子之謂乎?」
書き下し
郈成子が魯の為に晋に聘せられ、衛を過ぎると、右宰谷臣が止めて觴した。楽を陳べても楽しまず、酒が酣になると送るに璧を以てした。顧みて反るとき、過ぎても辞さなかった。其の僕は曰く、「さきに右宰谷臣が吾子を觴するに甚だ歓んでいたのに、今、侯渫して過ぎて辞さないのはなぜですか」と。郈成子は曰く、「そもそも止めて我を觴するのは、我と歓ぶためである。楽を陳べて楽しまなかったのは、我に憂いを告げるためである。酒が酣になって我に璧を送ったのは、我に寄せたのである。これを観るに、衛はおそらく乱があろう」と。衛を倍すること三十里にして、寧喜の難が作り、右宰谷臣がこれに死んだと聞いた。車を還して臨み、三たび挙げて帰った。至ると、人を使ってその妻子を迎え、宅を隔てて異にし、禄を分かって食わせた。その子が長じると、その璧を反した。孔子はこれを聞いて、曰く、「そもそも知は以て微に謀るべく、仁は以て財を托すべきとは、其れ郈成子のことを謂うのか」と。
現代語訳
郈成子は魯のために晋へ使者として赴き、衛を通ったとき、右宰谷臣が引き止めて酒宴を設けた。音楽を並べても楽しまず、酒がたけなわになると璧を贈って送り出した。帰りに衛を通ったが、挨拶せずに通り過ぎた。従者が言った。「先日、右宰谷臣があなたをもてなしてとても喜んでいたのに、今、通りすぎて挨拶もされないのはなぜですか」。郈成子は言った。「そもそも引き止めて私をもてなしたのは、私と喜びを共にするためだ。音楽を並べても楽しまなかったのは、私に憂いを知らせるためだ。酒がたけなわになって私に璧を贈ったのは、私に託したのだ。これらから見れば、衛にはおそらく乱が起きるだろう」。衛を三十里離れたところで、寧喜の難が起こり、右宰谷臣がそれに殉じて死んだと聞いた。車を引き返して弔問し、三度哭して帰った。帰国すると、人をやって谷臣の妻子を迎え、家を別にして住まわせ、俸禄を分けて養った。その子が成長すると、璧を返した。孔子はこれを聞いて言った。「知恵で微かな兆しを察して謀ることができ、仁で財産を託すことができるとは、郈成子のような人のことか」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
人物志・八觀天下の至精に非ずんば、其れ孰か能く其の実を得んや。
-
史記 范雎蔡沢列伝此の時に当たり、秦の昭王、謁者王稽を魏に使はす。鄭安平詐りて卒と為り、王稽に侍す。王稽問ふ、「魏に賢人の与に倶に西游すべき者有るか」と。鄭安平曰く、「臣の里中に張禄先生有り、君に見えて天下の事を言はんと欲す。その人仇有り、敢へて昼見えず」と。王稽曰く、「夜与に倶に来たれ」と。鄭安平、夜張禄と王稽に見ゆ。語未だ究まらざるに、王稽、范睢の賢なるを知り、謂ひて曰く、「先生、我を三亭の南に待て」と。私かに約して去る。王稽、魏を辞して去り、過りて范睢を載せて秦に入る。湖に至り、車騎の西より来たるを望見す。范睢曰く、「彼の来たる者は誰と為す」と。王稽曰く、「秦の相穣侯、東して県邑を行く」と。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は秦の権を専らにし、諸侯の客を内るるを悪むと。此れ恐らくは我を辱めん、我寧ろ且く車中に匿れん」と。頃有りて、穣侯果たして至り、王稽を労ひ、因りて車を立てて語りて曰く、「関東に何の変か有る」と。曰く、「有る無し」と。また王稽に謂ひて曰く、「謁君、諸侯の客子と倶に来たること無きを得んや。益無し、徒らに人の国を乱すのみ」と。王稽曰く、「敢へてせず」と。即ち別れ去る。范睢曰く、「吾聞く、穣侯は智士なり、その事を見ること遅し。郷者車中に人有るを疑ひて、これを索むることを忘る」と。是に於いて范睢車を下りて走りて曰く、「此れ必ずこれを悔いん」と。行くこと十余里、果たして騎をして還りて車中を索めしむ、客無し、乃ち已む。王稽遂に范睢と咸陽に入る。已に使ひを報じ、因りて言ひて曰く、「魏に張禄先生有り、天下の弁士なり。曰く『秦王の国は累卵より危ふし、臣を得ば則ち安からん。然れども書を以て伝ふべからず』と。臣故に載せて来たる」と。秦王信ぜず、舎して食はしむるに草具を以てす。命を待つこと歳余。是の時に当たり、昭王已に立つこと三十六年。南のかた楚の鄢郢を抜き、楚の懐王秦に幽死す。秦東のかた斉を破る。湣王嘗て帝と称し、後これを去る。数々三晋を困しむ。天下の弁士を厭ひ、信ずる所無し。
-
史記 呂太后本紀孝恵此を以て日々飲みて淫楽を為し、政を聴かず、故に病有るなり。二年、楚の元王・斉の悼恵王皆来朝す。十月、孝恵斉王と太后の前に燕飲す、孝恵以為へらく斉王は兄なりと、上坐に置き、家人の礼の如くす。太后怒り、乃ち両卮の酖を酌みて、前に置かしめ、斉王をして起ちて寿を為さしむ。斉王起つ、孝恵も亦起ち、卮を取りて倶に寿を為さんと欲す。太后乃ち恐れ、自ら起ちて孝恵の卮を泛(くつがへ)す。斉王之を怪しみ、因りて敢へて飲まず、詳(いつは)り酔ひて去る。問ひて、其の酖なるを知る、斉王恐れ、自ら以為へらく長安を脱するを得ずと、憂ふ。斉の内史士王に説きて曰く、「太后は独り孝恵と魯元公主とを有つ。今王は七十余城を有ち、而して公主は乃ち数城を食む。王誠に一郡を以て太后に上り、公主の湯沐の邑と為さば、太后必ず喜び、王必ず憂ひ無からん。」と。是に於て斉王乃ち城陽の郡を上り、公主を尊びて王太后と為す。呂后喜び、之を許す。乃ち斉の邸に置酒し、楽しみ飲み、罷みて、斉王を帰す。三年、方に長安城を築く、四年に半ばを就し、五年六年に城就る。諸侯来会す。十月朝賀す。七年秋八月戊寅、孝恵帝崩ず。喪を発す、太后哭すれども、泣下らず。留侯の子張辟彊侍中為り、年十五、丞相に謂ひて曰く、「太后は独り孝恵を有つのみ、今崩じて、哭すれども悲しまず、君其の解を知るか。」と。丞相曰く、「何の解ぞ。」と。辟彊曰く、「帝に壮子毋し、太后君等を畏る。君今請ひて呂台・呂産・呂禄を拝して将と為し、兵を将ゐて南北軍に居らしめ、及び諸呂皆宮に入り、中に居りて事を用ゐしめよ、此くの如くならば則ち太后の心安んじ、君等幸ひに禍を脱するを得ん。」と。丞相乃ち辟彊の計の如くす。太后説び、其の哭乃ち哀し。呂氏の権此より起こる。乃ち天下に大赦す。九月辛丑、葬る。太子即位して帝と為り、高廟に謁す。元年、号令一に太后より出づ。
-
史記 黥布列伝山東は漢の有に非ざるなり。中計に出でば、勝敗の数未だ知るべからざるなり。下計に出でば、陛下枕を安んじて臥せん」と。上曰く、「何をか上計と謂ふ」と。令尹対へて曰く、「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、斉を并せ魯を取り、檄を燕・趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり」と。「何をか中計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖庾の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数未だ知るべからざるなり」と。「何をか下計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた下蔡を取り、重を越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下枕を安んじて臥し、漢事無からん」と。上曰く、「是の計将に安くにか出でんとす」と。令尹対へて曰く、「下計に出でん」と。上曰く、「何の謂ぞ上中計を廃して下計に出づるとは」と。令尹曰く、「布は故の麗山の徒なり。自ら万乗の主に致る。此れ皆身の為にして、後に百姓万世の為に慮ることを顧みざる者なり。故に下計に出づと曰ふ」と。上曰く、「善し」と。薛公に千戸を封ず。乃ち皇子長を立てて淮南王と為す。上遂に兵を発し、自ら将として東のかた布を撃つ。布の初めて反するや、其の将に謂ひて曰く、「上老いたり、兵を厭ふ。必ず来たる能はず。諸将をして使はしめん。諸将は独り淮陰・彭越を患ふるのみ。今皆已に死せり。余は畏るるに足らざるなり」と。故に遂に反す。果して薛公の之を籌るが如く、
-
史記 扁鵲倉公列伝其の後扁鵲虢に過ぐ。虢の太子死す。扁鵲虢の宮門の下に至り、中庶子の方を喜む者に問ひて曰く、「太子何の病ありて、国中の治穣衆事に過ぐるや」と。中庶子曰く、「太子の病は血気時ならず、交錯して泄るるを得ず、暴かに外に発し、則ち中の害と為る。精神邪気を止むる能はず、邪気畜積して泄るるを得ず。是を以て陽緩みて陰急なり。故に暴かに蹷して死す」と。扁鵲曰く、「其の死は何如なる時ぞ」と。曰く、「雞鳴より今に至る」と。曰く、「収めたるか」と。曰く、「未だし。其の死未だ半日なる能はざるなり」と。「言へ、臣は斉の勃海の秦越人なり、家は鄭に在り、未だ嘗て精光を望みて前に侍謁するを得ざるなり。太子不幸にして死すと聞く。臣能く之を生かさん」と。中庶子曰く、「先生之を誕ること無きを得んや。何を以て太子生くべしと言ふや。臣聞く、上古の時、医に兪跗有り。病を治するに湯液醴灑、鑱石撟引、案扤毒熨を以てせず、一たび撥して病の応を見、五蔵の輸に因りて、乃ち皮を割き肌を解き、脈を訣し筋を結び、髄脳を搦り、荒を揲し幕を爪し、腸胃を湔浣し、五蔵を漱滌し、精を練り形を易ふと。先生の方能く是の若くならば、則ち太子生くべきなり。是の若くなる能はずして之を生かさんと欲するは、曾ち以て咳嬰の児に告ぐべからず」と。終日、扁鵲天を仰ぎて嘆じて曰く、「夫子の方を為すや、管を以て天を窺ひ、郄を以て文を視るが若し。越人の方を為すや、脈を切り色を望み声を聴き形を写すを待たずして、病の在る所を言ふ。病の陽を聞きて、論じて其の陰を得、病の陰を聞きて、論じて其の陽を得。病の応は大表に見はる。千里を出でずして、決する者至って衆く、曲げて止むべからざるなり。子吾が言を以て誠ならずと為さば、試みに入りて太子を診よ。当に其の耳鳴りて鼻張るを聞くべし。其の両股を循りて以て陰に至らば、当に尚ほ温かなるべきなり」と。
-
『韓非子』說林下二十三崇侯・悪来は紂の誅に適はざるを知るも、武王の之を滅ぼすを見ず。比干・子胥は其の君の必ず亡ぶるを知るも、身の死するを知らず。故に曰く、「崇侯・悪来は心を知りて事を知らず、比干・子胥は事を知りて心を知らず」と。聖人は其れ備はれり。宋の太宰貴くして主断す。季子将に宋君に見えんとす。梁子之を聞きて曰く、「語は必ず太宰と三坐すべからんか、然らずんば、将に免れざらんとす」と。季子因りて説くに主を貴びて国を軽んずるを以てす。楊朱の弟楊布、素衣を衣て出づ。天雨ふり、素衣を解き、緇衣を衣て反る。其の狗知らずして之に吠ゆ。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る