智囊 / 知微・殷長者
武王入殷,聞殷有長者,武王往見之,而問殷之所以亡。殷長者對曰:「王欲知之,則請以日中為期。」及期弗至,武王怪之。周公曰:「吾已知之矣。此君子也,義不非其主。若夫期而不當,言而不信,此殷之所以亡也。已以此告王矣。」
新字:武王入殷,聞殷有長者,武王往見之,而問殷之所以亡。殷長者対曰:「王欲知之,則請以日中為期。」及期弗至,武王怪之。周公曰:「吾已知之矣。此君子也,義不非其主。若夫期而不当,言而不信,此殷之所以亡也。已以此告王矣。」
書き下し
武王が殷に入ると、殷に長者がいると聞き、武王は往いてこれに見え、殷の亡びた所以を問うた。殷の長者は対えて、「王が知ろうと欲するなら、請う日中を期としましょう」と言った。期に及んで至らなかったので、武王はこれを怪しんだ。周公は曰く、「吾は已に知りました。この人は君子であり、義として其の主を非としません。かの期にして当たらず、言って信ならざること、これが殷の亡びた所以です。已にこれを以て王に告げたのです」と。
現代語訳
武王が殷の都に入ったとき、殷に徳のある長老がいると聞き、武王は会いに行って、殷が滅びた理由を尋ねた。殷の長老は答えた。「王がお知りになりたいのなら、正午にお会いしましょう」。約束の時刻になっても来なかったので、武王は不思議に思った。周公が言った。「私はもう分かりました。この方は君子で、道義としてかつての主君を悪く言うわけにはいかないのです。約束の時刻に守らず、言葉に信がないこと、これこそ殷が滅びた理由です。すでにそのことを王にお告げになったのです」。
解説
殷の長老は、滅びた主君の悪口を言うことは義にもとると考え、言葉の代わりに約束の時刻に現れないという行動で、殷が滅んだ原因を示しました。約束を守らず、言葉に信がない国は滅びるというメッセージです。周公はその意図を一瞬で見抜いており、言外の意味を読み取る力が光ります。管理職は、部下や関係者が口に出せない事情を、行動や態度から読み取る感度が必要です。また、信用が組織の生死を分けるという教えは、小さな約束の遵守から日々築かれると、現代の仕事にも直結する示唆を与えてくれます。
この章句が説くこと
以日中為期義不非其主期而不当信用言外の意味洞察
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