智囊 / 迎刃・李賢・王瓊
法司奏,石亨等既誅,其黨冒奪門功升官者數千人,俱合查究。上召李賢曰:「此事恐驚動人心。」賢曰:「朝廷許令自首免罪,事方妥。」於是冒功者四千餘人,盡首改正。武宗南巡還,當彌留之際,楊石齋已定計擒江彬。然彬所領邊兵數千人,為彬爪牙者,皆勁卒也。恐其倉卒為變,計無所出,因謀之王晉溪。晉溪曰:「當錄其扈從南巡之功,令至通州聽賞。」於是邊兵盡出,彬遂成擒。
新字:法司奏,石亨等既誅,其党冒奪門功升官者数千人,倶合查究。上召李賢曰:「此事恐驚動人心。」賢曰:「朝廷許令自首免罪,事方妥。」於是冒功者四千余人,尽首改正。武宗南巡還,当弥留之際,楊石斎已定計擒江彬。然彬所領辺兵数千人,為彬爪牙者,皆勁卒也。恐其倉卒為変,計無所出,因謀之王晋渓。晋渓曰:「当録其扈従南巡之功,令至通州聴賞。」於是辺兵尽出,彬遂成擒。
書き下し
法司奏す、石亨ら既に誅せられ、其の党にして奪門の功を冒して官に升る者数千人、倶に合に査究すべしと。上は李賢を召して曰く、「此の事は人心を驚動するを恐る」と。賢曰く、「朝廷は自首を許して罪を免ぜしむれば、事は方に妥なり」と。是に於いて功を冒す者四千余人、尽く首して改正す。武宗の南巡より還るに、弥留に当たりて、楊石斎は已に江彬を擒えんと計を定む。然れども彬の領する所の辺兵数千人は、彬の爪牙たる者にして、皆な勁卒なり。其の倉卒に変を為さんことを恐れ、計の出ずる所無く、因りて王晋渓に謀る。晋渓曰く、「当に其の扈従南巡の功を録し、通州に至りて賞を聴かしむべし」と。是に於いて辺兵は尽く出で、彬は遂に擒えらる。
現代語訳
法務担当の官が上奏した。石亨らがすでに誅せられたが、その一味で奪門の功を偽って官位に昇った者が数千人おり、すべて調べて処罰すべきだと。帝は李賢を召して言った。「この件は人心を動揺させるのではないか」。賢は言った。「朝廷が自首を許して罪を免ずれば、事は適切に収まります」。そこで功を偽った者四千人余りが、みな自首して訂正した。武宗が南巡から帰り、危篤になったとき、楊石斎(楊廷和)はすでに江彬を捕らえる計画を定めていた。しかし、彬が率いる辺境の兵数千人は彬の手足となる者で、みな精鋭であった。突発的に変事を起こすことを恐れ、策が出ないので、王晋渓(王瓊)に相談した。晋渓は言った。「彼らが南巡に随行した功績を記録して、通州に来て恩賞を受けるようにさせましょう」。そこで辺境の兵はすべて出て行き、彬はついに捕らえられた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・九地篇所謂る古の善く兵を用うる者は、能く敵人をして前後相及ばず、衆寡相恃まず、貴賤相救わず、上下相収めず、卒離れて集まらず、兵合して斉わざらしむ。
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孫子・地形篇夫れ勢均しきに、一を以て十を撃つを、走と曰う。卒強く吏弱きを、弛と曰う。吏強く卒弱きを、陥と曰う。大吏怒りて服せず、敵に遇いて懟みて自ら戦い、将其の能を知らざるを、崩と曰う。将弱くして厳ならず、教道明らかならず、吏卒常無く、兵を陳ぬること縦横なるを、乱と曰う。将敵を料る能わず、少を以て衆に合い、弱を以て強を撃ち、兵に選鋒無きを、北と曰う。凡そ此の六者は、敗の道なり。将の至任、察せざるべからず。
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