智囊 / 迎刃・于謙
永樂間,降虜多安置河間、東昌等處,生養蕃息,驕悍不馴。方也先入寇時,皆將乘機騷動,幾至變亂。至是發兵征湖、貴及廣東、西諸處寇盜。於肅愍奏遣其有名號者,厚與賞犒,隨軍徵進。事平,遂奏留於彼。於是數十年積患,一旦潛消。
新字:永楽間,降虜多安置河間、東昌等処,生養蕃息,驕悍不馴。方也先入寇時,皆将乗機騷動,幾至変乱。至是発兵征湖、貴及広東、西諸処寇盗。於粛愍奏遣其有名号者,厚与賞犒,随軍徴進。事平,遂奏留於彼。於是数十年積患,一旦潜消。
書き下し
永楽の間、降虜は多く河間・東昌等の処に安置せられ、生養し蕃息して、驕悍にして馴れず。方に也先の入寇せし時、皆な将に機に乗じて騒動し、幾んど変乱に至らんとす。是に至りて兵を発して湖・貴及び広東・西の諸処の寇盗を征す。于粛愍は、其の名号有る者を遣わさんことを奏し、厚く賞犒を与え、軍に随いて征進せしむ。事平らぐに、遂に奏して彼に留む。是に於いて数十年の積患は、一旦にして潜消す。
現代語訳
永楽年間、降伏した異民族の多くは河間・東昌などの地に安置され、生活が豊かになり人口も増えたが、驕り高ぶって従順ではなかった。ちょうど也先が侵入したとき、彼らはみな機に乗じて騒ぎ立て、ほとんど反乱になりそうだった。ここに至り、兵を出して湖広・貴州および広東・広西の諸所の盗賊を討伐した。于粛愍(于謙)は、名号のある者を派遣するよう上奏し、厚く恩賞を与え、軍に随行して出征させた。事が平定すると、そのまま上奏してその地に留まらせた。こうして数十年来の積年の患いが、一朝にしてひそかに消えた。
解説
長年にわたり膨らんだ不安要素を、于謙は取り締まるのではなく、役割と恩賞を与えて遠征に出し、帰らせずに現地に定着させるという形で解消しました。力を持て余し、騒動の芽となっていた集団に、戦功を立てる場所と、その後の居場所を与える設計です。排除や弾圧は反発を招きますが、これは本人たちにとっても利益のある出口でした。現代の組織でも、扱いにくい実力者や余剰人員を、新規事業や遠隔の拠点に送り出し、成果と処遇を得る形にすれば、摩擦を避けて力を生かせます。ただし、出口の設計が不十分だと、不満の再燃を招きます。
この章句が説くこと
降虜驕悍厚与賞犒随軍徴進遂奏留於彼数十年積患一旦潜消人員の出口
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