長短経 / 三国権
漢乗利將歩騎二萬餘人進逼成都、去城十餘里、阻江北為營、作浮橋。使副劉尚将萬餘人屯江南、相去二十餘里。光武聞之、大驚、譲漢曰、「賊若出兵綴公、而以大衆攻尚、尚破、公即敗矣!幸夲無他者、急引兵還廣都。詔書未到、述果使其將謝豊攻漢、使别将刼劉尚、令不得相救。漢乃閉營、三日不出、多樹幡旗、使煙火不絶。夜銜枚引兵與尚軍合、豐等不覺。明日、乃分兵拒水北、自将攻江南、漢破之、斬謝豐。
新字:漢乗利将歩騎二万余人進逼成都、去城十余里、阻江北為営、作浮橋。使副劉尚将万余人屯江南、相去二十余里。光武聞之、大驚、譲漢曰、「賊若出兵綴公、而以大衆攻尚、尚破、公即敗矣!幸本無他者、急引兵還広都。詔書未到、述果使其将謝豊攻漢、使別将劫劉尚、令不得相救。漢乃閉営、三日不出、多樹幡旗、使煙火不絶。夜銜枚引兵与尚軍合、豊等不覚。明日、乃分兵拒水北、自将攻江南、漢破之、斬謝豊。
書き下し
漢、利に乗じて歩騎二万余人を将いて進みて成都に逼り、城を去ること十余里、江北に阻りて営を為し、浮橋を作る。副の劉尚をして万余人を将いて江南に屯せしめ、相去ること二十余里。光武之を聞きて大いに驚き、漢を譲めて曰く「賊若し兵を出して公を綴め、而して大衆を以て尚を攻めば、尚破れて、公即ち敗れん。幸いに他無くんば、急ぎ兵を引きて広都に還れ」と。詔書未だ到らざるに、述果たして其の将謝豊をして漢を攻めしめ、別将をして劉尚を劫かしめ、相救うを得ざらしむ。漢乃ち営を閉じて三日出でず、多く幡旗を樹て、煙火をして絶えざらしむ。夜、枚を銜みて兵を引きて尚の軍と合す。豊等覚らず。明日、乃ち兵を分かちて水北を拒ぎ、自ら将いて江南を攻む。漢之を破り、謝豊を斬る。
現代語訳
呉漢は勝ちに乗じて歩兵・騎兵二万余りを率いて成都に迫り、城から十余里のところで川の北を頼りに陣を張り、浮橋を作った。副将の劉尚に一万余りを率いさせて川の南に陣取らせ、互いに二十余里離れていた。光武帝はこれを聞いて大いに驚き、呉漢を責めて言った。「賊がもし兵を出してあなたを足止めし、大軍で劉尚を攻めれば、劉尚が破れ、あなたもすぐ敗れる。幸いまだ何も起きていなければ、急いで兵を広都に引き返せ」。詔書が届く前に、公孫述は果たして将軍謝豊に呉漢を攻めさせ、別の将に劉尚を襲わせて、互いに助け合えないようにした。呉漢は陣の門を閉じて三日出ず、旗をたくさん立て、炊煙を絶やさないようにした。夜、兵に枚をくわえさせて声を立てさせず、兵を率いて劉尚の軍と合流した。謝豊らは気づかなかった。翌日、兵を分けて川の北を防がせ、自ら率いて川の南の敵を攻め、これを破って謝豊を斬った。
解説
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孫子・九地篇所謂る古の善く兵を用うる者は、能く敵人をして前後相及ばず、衆寡相恃まず、貴賤相救わず、上下相収めず、卒離れて集まらず、兵合して斉わざらしむ。
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孫子・九地篇我以て往く可く、彼以て来たる可き者を、交地と為す。
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『長短経』三国権是に於て引きて広都に還り、状を以て光武に聞す。報じて曰く「公、広都に還るは、甚だ其の宜しきを得たり。述は必ず敢えて尚を略して公を撃たず。若し先ず尚を攻めば、公は広都より五十里、悉く歩騎もて之に赴け。適に其の疲困に値たらば、之を破ること必せり」と。是より、漢は述と広都・成都の間に戦い、八戦八克し、遂に其の郭中に軍す。述乃ち悉く金帛を散じ、敢死の士五千人を募りて、以て延岑に配す。岑は市橋に偽りて旗幟を建て、鼓を鳴らして戦いを挑み、而して潜かに奇兵を遣わして呉漢の軍の後ろに出で、襲撃して漢を破る。漢は水に堕ち、馬尾に縁りて出づるを得たり。述乃ち自ら将いて漢を攻め、三たび合して三たび勝つ。旦より中に及び、軍士食うを得ず、並びに疲る。漢因りて壮士に命じて之を突かしめ、述の兵大いに敗るるなり。〕
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『長短経』三国権〔岑彭、蜀の刺客の殺す所と為る。呉漢、其の軍を并せ将いて、犍為の界に入る。諸県皆城守す。漢乃ち軍を進めて広都を攻め、之を抜く。軽騎を遣わして成都の市橋を焼かしむ。陽武以東の諸小城皆降る。光武、漢を戒めて曰く「成都は十万の衆、軽んずべからざるなり。但だ堅く広都に拠りて、其の来たり攻むるを待ち、与に鋒を争うこと勿かれ。若し敢えて来たり攻めずんば、営を転じて之に迫り、其の力の疲るるを須ちて、乃ち撃つべきなり」と。
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『長短経』三国権軍成都に至る。述出でて戦い、兵敗れて刺され、胸を洞して死す。述の妻子を夷し、其の宮室を焚く。〔光武之を聞き、怒りて以て漢を譴めて曰く「城降ること三日、吏人服従す。一旦兵を放ちて火を縦にす。良に将を斬り人を弔うの義を失うなり」と。乃ち詔を下して之を慰む。其の忠節志義の士は、並びに旌顕を蒙り、李育は才幹有るを以て之を擢用す。是に於て西土感悦し、心を帰せざるは莫し。范曄曰く「昔、趙佗は自ら番禺に王たり、公孫も亦た帝を蜀漢に竊む。其の他の功能無きを推して、而も後に亡ぶるに至る者は、将た辺地の遠きに処りて、王化の先んずる所に非ざるを以てか。隙に因りて功を立て、以て時の変に会うこと能わず、方に乃ち坐して辺幅を飾り、高深を以て自ら安んず。昔、呉起の魏侯を慙じしめし所以なり。其の群臣に謝し、廃興の命を審らかにするに及びては、夫の泥首銜玉する者と、日を異にして談ずるなり」と。〕